■節子への挽歌2903:節子が帰りました
お盆もあっという間でした。
夕方、娘たちがそろったので、みんなで節子をお墓に送ってきました。
普通の家では、ちょうちんで扇動しますが、わが家はオランダ土産の様式の赤いガラスのランタンです。
お墓に行くとちょっと浮いた感じです。
お墓で般若心経をあげだしたのですが、途中で出てこなくなりました。
最初からまた唱えだしましたが、やはり途中で止まります。
何回やってもうまくいきません。
これはかなり問題です。
脳疲労か、あるいは認知症現象です。
まさか節子との別れがつらくて、脳が作動しなくなっているわけではないでしょう。
お経というのはおかしなもので、
途中で止めると続かなくなります。
一連の繋がりで、脳ではなく口が記憶しているのでしょう。
途中で誰かに話しかけられると混乱してしまいます。
今日は、かなり専心して唱えたのですが、思い出そうとすればするほど思い出せません。
むしろ専心すればするほど思い出せなくなります。
途中で諦めて、真言マントラを唱えたのですが、何とこれもスムーズに出てこないのです。
いささか疲労がたまっている。
思い当る理由はあるのですが、まあ、そのいろんな問題も、すこしずつほどけだしています。
ことしの夏も無事越えられそうです。
お墓に届けた後、みんなで食事に行きました。
もちろん「小節子」もつれてです。
節子は結局、どこに常駐しているのかと娘から言われましたが、
彼岸は時空間を超えていますから、いまここに、いつもいるのです。
となるとお盆とは何なのか。
死者が現世に還ってくるのではなく、現世に生きている私たちがちょっとだけ時空間を超えるのがお盆かもしれません。
| 固定リンク
「妻への挽歌15」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3000:3000日目(2015.11.19)
- ■節子への挽歌2999:「元気そうでよかった」(2015.11.18)
- ■節子への挽歌2998:歩いているとみんな良い人になる(2015.11.17)
- ■節子への挽歌2997:食材の安全性(2015.11.16)
コメント