■平和な日本における「見えない戦場」
間があいてしまいましたが、4日前の「被害者になる前に加害者になることをおそれたい」で最後に書いた、加害者の目線も持って考えると、日本のこの70年も、平和だったとは決して言えないのではないかについて書いておくことにします。
この70年の日本は、自らの平和を実現するために、さまざまな戦場をつくってきた(荷担してきた)のではないか。
そしていまなお、それを継続しているのではないか、という反省です。
この前の時評編で、「ヴァイマル憲法とヒトラー」を紹介しましたが、この本を読んでいて、平和と戦争はコインの裏表だと改めて痛感しました。
しかし、戦争の裏にある平和など、私には無意味のように思います。
宮沢賢治がいっているように、みんなが平和でなければ、平和などあり得ないのです。
ナチズムの時代を肯定的な思い出として生きているドイツ国民は決して少なくないと言います。
「多くの体験者は、ナチス時代になってようやく生活が安定し、治安も落ち着き、ドイツ人としての誇りを持って生きられるようになった、と回想しました」と、その本には書かれています。
ナチドイツで虐殺されたユダヤ人たちは、実質的に国籍を奪われていたことからわかるように、ナチスドイツでは、豊かな暮らしを享受できる人もいれば、死に直面して生きていた国民もいたのです。
どちらの視点に立つかで、世界は全く変わってきます。
さて、日本のこの70年の平和ですが、確かに日本では戦争はなかったですが、その時期、世界は戦争から解放されていたわけではありません。
朝鮮戦争やベトナム戦争が象徴的ですが、そうした各地の戦争が日本の経済的繁栄を支えてくれていました。
日本が経済的豊かさを享受している、すぐその隣で、人々が殺傷し合っているのです。
日本は、まるでゲーテッドシティのように、戦火から守られていた。
他国の不幸によって、日本の幸せは守られていたのかもしれません。
それが悪いとは言いませんが、なにかとても心苦しい。
せめて、日本の平和の裏側には、そうした悲惨な現実もあることの認識は忘れてはいけません。
ましてや、それを加速するようなことは、避けたい。
他国だけではありません。
国内にも、生き死にに関わる状況が日常的に遍在しています。
たとえば、子供の貧困が話題になっていますが、子供を守るために、まるで戦場での生活のような生き方をしている人も少なくないでしょう。
武器で殺傷されることはないとしても、生命の危機を感じながら、毎日を生きている人も決して少なくないでしょう。
そうでなければ、これだけ多くの精神の病や自殺が広がるはずはありません。
ヨハン・ガルトゥングは、構造的暴力をなくすことこそが積極的平和だと主張しました。
最近、安倍首相が唱えている「積極的平和」とは全く意味が違い、ガルトゥングが異議申し立てしていることが先日新聞に出ていましたが、構造的暴力まで視野にいれれば、いまなお、日本には「見えない戦場」が遍在していると言っていいかもしれません。
しかも、それは少なくなるどころか、むしろ広がっている。
それのどこが、平和なのか!
ナチスドイツが政権をとった時代状況に極めて似ているように思います。
そうした「見えない戦場」が、日本国の内外に、私たちの暮らしの周辺にあることをもっと強く意識したいと思います。
ヒトラー時代のドイツ国民と同じ道は、歩みたくはありません。
でもそこからどうやって抜けるのか、まだ私には見えてこないのですが。
明日は敗戦の日。
せめて私のまわりの戦場への思いを深めようと思います。
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