■節子への挽歌2905:色即是空の無常観
節子
お盆が終わったら急に涼しくなりました。
季節が一変してしまったような感じです。
高低差があるため、高台にあるわが家からは一望できる隣の住宅の取り壊しが始まりました。
大きな家で、いままではその庭を上から楽しませてもらっていましたが。お一人住まいだった方がなくなり、土地が売却され、5つの建売建築が建てられることになりました。
庭の植木はもうすべて伐採されていますが、残っていた建物が朝から解体されだしました。
解体の様子はいつ見ても、無残です。
この家で何十年も営まれていた家族の生活の記憶は、消えて行ってしまうわけです。
隣家とはいえ、高低差のために日常的な御付き合いはありませんでした。
なぜか節子が、そこで働いていたお手伝いさんと知り合いになり、その方が時々、わが家に来ていましたが、その縁で、ささやかな付き合いがあったほどです。
しかし、家主が亡くなったため、お手伝いのOさんは故郷に戻りました。
時々、その家にお見えになっていた娘さん(節子と同世代でした)も、節子よりも少し後になって「がん」を発病され、数年前に亡くなりました。
その後、その伴侶の方も亡くなったそうです。
人の記憶は実にもろいものです。
この家がなくなって、そこに新たに5軒の家ができてしまえば、おそらく私の記憶から隣家の人たちの記憶は消えていくでしょう。
そうやって人はたぶん現世での生を終えていくのでしょう。
壊されつつある隣家の家を見ていると、時々、かくしゃくとして庭を歩いていた高齢のTさんの姿を思い出します。
がんが発見され、節子のところに話に来ていた娘さんの顔も思い出します。
いまは仙台に帰ってしまった、お手伝いのOさんの姿も思い出す。
節子がいなくなった後も、何回かOさんはわが家の相談に来たことがあります。
そのお礼にと、一度、たしか洗剤を持ってきてくれたことがあります。
なぜ洗剤なのか不思議だったのですが、Oさんは実に素朴な方でした。
壊される家の外に、しばらく庭掃除のための竹ぼうきなどが放置されていました。
それは、Oさんに頼まれて、娘が買ってきたものだそうです。
まあ、そんな思い出も、すべて消えていくわけです。
いや、消えるのではなく、たぶん「無」の世界へと進むのでしょう。
色即是空の意味が、最近、ほんの少しだけ実感できるようになってきました。
ほんの少し、だけですが。
今日は、なんだか奇妙なほどに悲しい日です。
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