■節子への挽歌2887:学びの場
節子
涼しくなりました。
今日は畑にも行けそうです。
秋に向けて花を植える場所をつくらなければいけません。
例年であれば、ブルーのセイジが咲き誇っているはずですが、今年はいささか刈り取りすぎたようで、ぱらぱらとしか咲いていません。
草刈りは結構難しいのです。
今年の猛暑で、庭の花木もだいぶ弱ってしまいました。
琉球朝顔に並んで、皇帝ダリアも春に植えたのですが。どうも元気がありません。
朝晩の水やりはかなり習慣化しましたが、それでも抜けがあって、枯らしてしまうのです。
しかし、どんなに水やりをさぼっても、野草だけは枯れません。それが実に不思議です。
これをテーマにするだけでも、生命の本質が見えてくるかもしれません。
言語化はできませんが、ささやかな体験だけでも気づくことは多いです。
お百姓や主婦が、哲学者になる理由がよくわかります。
節子は、毎日、花と接する時間を持っていましたが、私はまだそこまでにはなれません。
大切なのは、水やりではなく、花木への声かけなのだとわかっていても、なかなかそうはなりません。
いまから考えれば、むかし私がやっていたのは、表面をただ濡らすだけの水やりでした。
その花木の状況に合わせて、時間をかけないといけないということに気づいたのは、最近です。
つまり、花木に水をやるということは、花木と話し合うということなのです。
こうしたことを通して、人はさまざまなことを学んでいくのでしょうが、そういう学びの場がどんどんなくなっているような気がします。
少なくとも私は、そうしたことの多くを、つまり生きるための多くを、節子に依存していたために、私の学びの場はいかにも狭かったことを実感しています。
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