■節子への挽歌2919:「死に行ける妻はよみがへりわが内に生く」
先日、少し引用した田辺元の「死の哲学」を、なんとなく読んでいます。
集中して読むには、いささか難解なので、目が行ったところを読むという怠惰な読み方です。
「実存協同」という言葉が時々、目に入ってきます。
言葉だけは以前から知っていたのですが、その意味は十分に理解できていません。
ところが、こんな文章が目に入ってきました。
愛によって可能になる、死者と生者との交互的な関わり。
これを田辺元は「実存協同」という独特の言葉で表現したのです。
つまり、実存協同によって、生死を超えることができるわけです。
田辺元が、奥さんの死を、号泣するほどに、嘆き悲しんだことは有名な話です。
わがために命ささげて死に行ける妻はよみがへりわが内に生く
これは田辺が詠んだものですが、この経験が、田辺の「死の哲学」の根底にあると言われています。
田辺とは比べようもありませんが、同じような体験をした私としても、この「実存協同」といことには違和感はありません。
こうした体験をすると、死や生に対する捉え方が変わってきます。
それだけではなく、人のつながりの感じ方も変わってくる。
自己と他者との境界さえもが、いささか曖昧になえなってくるのです。
「実存協同」を可能にするのは「愛」です。
こでいう「愛」は、情愛とはちがいます。
情愛よりも、広く深いと言っていいでしょう。
もちろん異性である必要もありません。
いや、場合によっては、人である必要もない。
人は、「愛」によって人になったのかもしれません。
人の歴史は、愛によって始まった。
「死の哲学」を、理解できないままに、ぱらぱら読んでいて、そんなことを考えたりしています。
つまり、「死の哲学」とは「愛の哲学」なのではないか。
西田哲学をいかにも勝手に解釈してしまい、笑われそうですが、きちんと読むにはまだ私の世界がそこに届いていないようです。
引き続き、しばらくは気の向くままの拾い読みを続けようと思います。
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