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2015/09/18

■節子への挽歌2937:雨の中を寄り添って無言のデモをしている老夫婦

節子
昨日、国会デモに参加してきました。
8月30日よりは、参加者は少なかったですが、熱気はむしろ高かったです。
幸いに私がいる間は、雨はさほどひどくなかったのですが、雨を気にしている人はいませんでした。
道端に座っている中高年の夫婦も多かったような気がします。
みんなやりきれなさをかかえているのでしょうか。

昨日はなぜか、安保法案よりも、そうした夫婦の風景が気になってしまいました。
というのも、デモに出かける前、テレビで国会の特別委員会の荒れ模様を見ていたのですが、自民党の議員たちは、家庭でどんな会話をしているのだろうかと気になりだしたのです。
誰一人、トップに異を唱えない政党のメンバーには、たぶん「自分の生活」はないでしょう。
いったい彼らの生活や家族はどうなっているのかと、気になりだしました。
平和の基本は、生活であり、家族であり、夫婦です。
それがなければ、平和を語ることなどできないはずです。
嘘八百で、言うことがコロコロ真反対に変わっていく安倍首相や中谷防衛相を、いさめる伴侶はいないのか。
家族はいないのか。
友人はいないのか。
もしいさめないとすれば、「愛」がないからでしょう。
まあ、そんなことを思ったりしてしまったわけです。
そしてデモに行ったら、雨の中を寄り添って無言のデモをしている老夫婦に出会ったのです。

先日テレビで、新宿での安保法案賛成デモの風景を見た記憶がよみがえってきました。
そこでは若い母親世代の女性が盛んにシュプレヒコールを叫んでいました。
私にはとても信じられない風景ですが、この人たちは人を愛したことがあるのだろうかと思っていました。
本当に子どもを愛しているのだろうかとも思いました。
人を愛したことがあれば、戦争など賛成するはずがありません。
平和のための軍事力などという、矛盾した言葉に惑わされることなどないはずです。
戦う向こう側にも人はいるのですから。

国会での安保法案反対デモでも、女性のシュプレヒコールが目立ちました。
いつもは抵抗なく声が出せるシュプレヒコールも、昨日はあまり声が出せませんでした。
その好戦的なリズムが気になったのです。
「あべはやめろ!」というコールも前回は違和感がなかったのですが、今日は少し抵抗がありました。
もしかしたら、いまの日本から失われているのは「愛」かもしれない、となぜか突然思ってしまったのです。
疲労感がどっと出てきました。

警察官が高圧的で挑戦的だと、昨夜、デモに行った人が書いてきました。
私も一度書きましたが、原発反対デモの時に比べると、今回は確かに警察官が高圧的だと感じていました。
しかし、昨日は警察官をよく観察しました。
若い、本当に子どものような素直そうな警察官が前線にかりだされています。
彼らは、もしかしたら、大勢のデモの市民に恐怖や不安を感じているのかもしれません。
そこに不足しているのは、やはり「愛」なのでしょう。
彼らは決して、高圧的でも、挑戦的でもない。
こちらの意識を少し変えるだけで、見え方はかなり変わってきます。

そうか、いま失われているのは「愛」なのだと、改めて感じました。
そういう気分になってしまったためか、どうもデモの現場にいるのがつらくなってしまいました。
だらしのない話ですが。

昨日は、デモに行かなければよかったです。
愛の失われた時代を、実感させられた気分になってしまったからです。
そんなわけで、足取り重く帰宅しました。
こんなに疲れたデモは初めてです。

時評編では、まったく違ったことを書きそうですが、こんな気分も感じたことを、挽歌編に書いておきたくなりました。
節子がいたら、あの老夫婦のように、シュプレヒコールにも同和せずに、ただ静かに座っているような参加ができたかもしれません。
そうしたら、世界はまた違って見えたかもしれません。

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コメント

 佐藤さんへ、
 18日の夕刻、どちらが言い出したかは覚えがないままやはり二人で国会議事堂正門前に向かいデモに参加して来ました。


 >警察官が高圧的で挑戦的だと、昨夜、デモに行った人が書いてきました。
 >私も一度書きましたが、原発反対デモの時に比べると、今回は確かに警察官が高圧的だと感じていました。
 >しかし、昨日は警察官をよく観察しました。
 >若い、本当に子どものような素直そうな警察官が前線にかりだされています。

 想い起こせばあの頃(70年前後)は警察官(機動隊)の相貌に間近に接することなどは無かったような、そんな覚束ない記憶とともに“デモ隊の意思と市井の人々の感受性とで機動隊(権力)を挟み撃ちにして受けとめよう”と唱えた小田実(=べ平連創設者の一人で故人)の思いをダブらせながらデモ参加者の誘導に忙しく立ち回っている彼ら若い警察官達を眺めていました。多くが私の子供もしくはそれ以後の世代の若者達ですし、あの時も小田氏の言葉が殆ど通じなかったようにどうしたら彼らとの間に回路を構築することが可能なのか、私にはなかなかその手立てが見えて来ません。

 >彼らは、もしかしたら、大勢のデモの市民に恐怖や不安を感じているのかもしれません。
 >そこに不足しているのは、やはり「愛」なのでしょう。
 >彼らは決して、高圧的でも、挑戦的でもない。
 >こちらの意識を少し変えるだけで、見え方はかなり変わってきます。

 彼らが大勢のデモの市民にたいし畏怖の念や不安のようなものを懐いていたか否か、そこに不足しているものが「愛」なのかどうか私は推断がつき兼ねています。それよりも彼らは単に職務に忠実なだけのことのように思われてなりません。

 >そうか、いま失われているのは「愛」なのだと、改めて感じました。
 >だらしのない話ですが。

 融和のための原初的な在り様として他者の立場になって考えてみる(≠同情)こと、それは知性主義の発露とも云えるような物事を“対象化(相対化)”するプロセスに他ならず、そして今、我々が回復あるいは獲得すべきはこの思考様式なのではないでしょうか。無論、同時にその両輪でもある感性の練磨と論理の鍛錬を重ねていく必要があると思っています。

 また、会いましょう。

投稿: 向阪夏樹 | 2015/09/19 13:33

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