■節子への挽歌2941:「…って、どんな意味があるのだろうか」
節子
また挽歌がたまってきました。
別に時間がないわけでもないですし、書きたくないわけではありません。
ただただ書けていないだけです。
人は元気の時はいいです。
自分がやっていることのすべてが、価値のあることのように感じられる。
しかし、何かでめげてしまうと、やっていることのすべての意味が感じられなくなってしまう。
この1~2年は、そうしたことの繰り返しです。
世間的に言えば、情緒不安定、躁鬱気分とでもいえるでしょうか。
いつも事の始まりは、極めて瑣末なことから始まります。
節子はよく聞いたことのある言葉でしょうが、「…って、どんな意味があるのだろうか」という極めて小さな疑問から始まります。
いま陥っているのは、湯島で毎週のようにやっているカフェサロンって、いったいどんな意味があるのだろうかという疑問です。
実は今日も湯島に来ています。
「個人の尊厳と社会の尊厳」をテーマにしたサロンです。
大学時代の友人に話題提供してもらうのですが、大阪で弁護士事務所を開いている彼の時間を割いてもらって、彼に迷惑を与えたのではないかという気がし出したら、何かちょっと気になりだしたのです。
いつか彼にお返しができればいいですが、なかなか難しそうです。
まあ私の「恩送り」主義から言えば、そういう考えは不要なのですが、気になると止まりません。
それに休日なのにわざわざ湯島まで来てくれる参加者の人たちはどうでしょう。
私に付き合っているのかもしれません。
こんなサロンをやっていても、社会は変わらない。
そう思うとやはり考えてしまうのです。
いうまでもありませんが、私はいまの社会の生きづらさを、少しでもなおしたいと思って、サロン活動をしています。
でも何も変わらない。
だから時々思うのです。
「サロンをやることに、どんな意味があるのだろうか」と。
節子がいたころは節子に訊ねていました。
節子の答えは、いつも、「じゃあ、やめたら」でしたが、それでいるも疑問は解消されました。
あんまり論理的ではないのですが、論理的ではない対話が夫婦では成り立ちます。
そろそろその友人が来ます。
迷いは捨てなければいけません。
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