■節子への挽歌2931:人生の過剰を捨てることの難しさ
節子
鬼怒川の堤防が決壊しました。
その様子をテレビで見ていて、自然はやはり生きていると感じました。
正確に言えば、自然の意思のようなものを感じたのです。
いつものように、論理的な思考の結果ではなく、突然にそう感じただけです。
自然の表情の変化は、いつも実に鮮やかです。
その変化の中で、私の感情の乱高下など、些末な話です。
自分の存在を相対化できれば、人生はきっと平安になるのでしょう。
自然は、時々それを教えてくれるのかもしれません。
人生には「過剰」がつきものです。
過剰がなければ、人生は面白くはないでしょう。
しかし、過剰があればこそ、感情は乱高下し、平安はもたらされない。
感情の乱高下は、多くの場合、過剰によってもたらされる。
その過剰を捨てることができれば、人生はどんなに平安でしょうか。
平安が退屈だと感じないようにするにはどうしたらいいか。
それが見つからないまま、感情の乱高下に付き合う気力が次第に消えてきているような気がします。
いまでも、思い出すだけで、気持ちが沈んだり、不安感に襲われることがあります。
本来はしっかりと立ち向かわなければいけないのですが、その気力がない。
その部分を、私の「過剰な一部」として捨てればいいだけの話ですが、なかなかそれができない。
過剰を捨てていくと、人生はどんどん小さくなる。
それを受け入れたくない自分が、まだいるのです。
昨日は、挽歌をかけずに終わりました。
過剰な部分も含めて、昨日は少し厭世観にうもれてしまっていました。
今日の青空にようやく癒されました。
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