■節子への挽歌2943:とかく人の世は住みにくい
節子
気を抜くとまた、日数との差が開くので、挽歌を優先させようと思います。
今朝、娘と話をしていて、節子は格闘技が嫌いだったねという話になりました。
私も嫌いでしたが、節子はかなり徹底していました。
私は西部劇が好きだったのですが、節子は嫌いでした。
殺し合いがともかく嫌いだったからです。
それまで私は、西部劇での撃ち合いなどを気にはしていませんでしたが、節子から言われてみるとたしかに醜い殺し合いが多いです。
マカロニウェスタンが流行りだしてからの西部劇は、あまり見なくなりました。
西部劇に限らず、殺し合う場面のある映画は、節子は観ませんでした。
私も格闘技は昔から好きではありませんでした。
というよりも、まったく理解できないのです。
闘う相手は、人ではないはずです。
いささか理屈っぽいのですが、格闘技には大きな意味が潜んでいるような気がするのです。
節子から学んだことは、こういうことでした。
節子はたぶん意識もしていなかったでしょう。
だからこそ、私には学ぶことができたのかもしれません。
節子は、人を諭すようなことは言いませんでした。
節子は、知識や言葉ではなく、生き方において私にいろいろなことを気づかせてくれたのです。
いま、安保法制を巡って、いろんな言説が私にまで届いてきます。
私は、軍事による抑止力という発想自体に、格闘技を重ねたくなるのですが、友人からも、3日考えたけれども佐藤さんの主張が理解できないと言って、公開の場でていねいなメールをもらいました。
いただいた問いかけには応えなければいけません。
応えているうちに、世界が広がりますから、反対意見はありがたいことです。
しかし、どこかにむなしさを感じます。
問題は、簡単なことなのです。
節子なら言うでしょう。
なかよくやればいいだけだ、と。
生活者には、難しい理屈も議論も不要なのです。
このブログは、生々しい自分とちょっとソフィストケイトされた自分とを混在させながら、書き続けています。
見栄を張りながら、恥をさらけ出しているということです。
節子との世界は、まさにそうだったからです。
論理だけでの対話は、何か私の性には合わないことを、最近痛感しています。
論理の世界はぶれてしまうからです。
夏目漱石が、「知に働けば角が立つ,情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ,とかく人の世は住みにくい」と書きましたが、漱石も生きにくい社会を生きたのでしょう。
社会からの逃げ場が、やはりほしいです。
| 固定リンク
「妻への挽歌15」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3000:3000日目(2015.11.19)
- ■節子への挽歌2999:「元気そうでよかった」(2015.11.18)
- ■節子への挽歌2998:歩いているとみんな良い人になる(2015.11.17)
- ■節子への挽歌2997:食材の安全性(2015.11.16)
コメント