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2015/09/07

■節子への挽歌2927:「愛される自分」ではなく「愛する自分」を生きる

節子
ちょっと「愛について」の青くさい議論です。
このところ、愛するということの大切さを改めて感じているものですから。

愛する人がいるということは、愛する自分がいるということです。
人を愛するということは、たぶん世界を愛するということなのではないかと思います。
私は、どちらかというと、「愛する人」よりも「愛する自分」を大切にしてきました。
節子よりも自分を大切にしてきた、という意味ではありません。
「愛される」よりも「愛する」ことを大切にしてきたということです。

そして、「愛する人」の存在こそが、「愛する自分」の存在意味だと考えてきました。
「愛する人」の向こうには、大きな世界が開かれている。
愛の力が大きければ、その愛は「愛する人」で止まるわけはありません。
愛する人を通して、世界がすべて愛おしいものに変わっていく。
節子がいなくなって、そのことが何となくわかるようになってきました。
そのことは、これまでもこの挽歌で、間接的に書いてきたつもりです。

でも、時々、だれかに愛されたいと思うことはあります。
つまり、「愛される自分」がほしくなる。
そうなると、世界は見えなくなりがちです。
素直に生きることも難しくなる。
なぜなら、愛することは自分の問題ですが、愛されることは他者の問題だからです。
愛されることが目的になってしまい、生きることが手段になりかねない。

生きることは、たぶん「愛すること」です。
生きる力は、愛から生まれてくる。
愛する人や物を喪った時、人は生きる気力も失いそうになる。
そのことを考えれば、納得してもらえるかもしれません。
人はパンがなくても、愛がなくても、生き続けられない。
そう思います。

私が、「愛される自分」ではなく「愛する自分」を生き続けられているのは、節子のおかげだと思っています。
でもやはり、時には誰かに「愛されたい」と思うのは、まだ節子への未練があるからかもしれません。
まだまだ煩悩の世界にいるようです。

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妻への挽歌15」カテゴリの記事

コメント

 佐藤さんの問題意識をなぞりつつ私も愛についての青臭い話をひとくさり述べさせていただきたく思いました。


 >私が、「愛される自分」ではなく「愛する自分」を生き続けられているのは、節子のおかげだと思っています。
 >でもやはり、時には誰かに「愛されたい」と思うのは、まだ節子への未練があるからかもしれません。
 >まだまだ煩悩の世界にいるようです。

 私にはお二人の交流の真実について語る術はなく、たとえば社会にたいする問題意識を少なからず共有している夫婦の在り様とはどんなだろうと想像してみては自身の現実との違いに突き当たるばかりなのです。
 私はこれまでに“愛”と云う言葉をあまり用いては来ませんでした。今日に至っても尚、男女間に基底的に存在しているのはエロス(性なる愛)であり、その延長線上に或いはアプリオリにアガペー(聖なる愛)があるとするのは論理的に飛躍が甚だしい故に受け容れることが出来ずにいます。
 それでも、敢えてそれを言葉にするとしたら、「与えることと受けとめることの“動的平衡”としての愛」と、そんなふうに表現できるかも知れません。つまり、与えることも受けとめることも“愛”の諸相を表象し、“動的平衡”となるときに現実のものとして成立すると謂えるのではないでしょうか。そして、それを“愛”と呼ぶか否かは人それぞれだと思うのです。
 唯、私自身は与えることにも受けとめることにも常に真摯で加えて賢明でありたいと思っているのですが、それが“動的平衡”として結実するかは保証の限りではありません。
 青臭い話と云えば、嘗て私は“恋愛”を互いが持っている波長を感じ合いシンクロナイズさせようとすることではないかと考えていた時期があり、またそうした実感を伴いながら過ごした喜怒哀楽の入り混じる季節が私にも到来し、確かにそれは私の人生に豊かさを齎しました。けれども、果たしてそうした“恋愛”が“動的平衡”を生成することに繋がって行ったかどうかについては甚だ疑問だと思っています。
 少し小難しい話になってしまいました。
 反省しています。

 また、会いましょう。

投稿: 向阪夏樹 | 2015/09/08 12:56

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