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2015/10/07

■FBの書き込みにコメントしてくださった方へのとりあえずの回答

9月23日に、緊急カフェサロン「安保法制成立をどう考えるか」の報告をFBに書き込みました。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200872542851736&set=a.1319286038109.34919.1709527228&type=3&theater
安保法案審議やその進め方に関しては、その前にもいくつか私見をアップしましたが、それらも含めて、いろいろなコメントをもらいました。
特に、私の意見に納得できないお2人の方から、かなりていねいな疑問を何回か投げかけられました。
FBで議論するのは、あまり適切とは思いませんが、問われた以上、応じる責任があります。
お2人への回答も含めて、ブログできちんと書く予定ですが、やはりFBでも「とりあえずの私見」を書かせてもらうことにし、ノートにアップさせてもらいました。
長いものになりましたが、それをブログにも転載しておきます。
私のFBは、公開タイプなので、だれでも上記のアドレスからは入れるはずですが、まあそれを読んでいなくても、概ね、意味は伝わると思います。

以下、HさんとKさんのコメントへの返信です。

私が物事を考える場合、重視していることが3つあります.
「ビジョン(どういう状況を目指して考えるかの方向性)」
「ファクト(現在の状況をどう認識するか)」
「ミッション(自分が行う言動の役割)」
の3つです。

今回の安保法案の審議や採決、それに対する社会や個人の活動についても、それに関する自分の意見を表明する時には、この3つを意識しています。
これは、今回の問題に限らず、ほぼすべての私の言動に通ずるものです。
この3つの要素に関して、私の考えはおおむね次の通りです。

ビジョン:誰もが安心して気持ちよく暮らせる社会を目指す。
ファクト:多くの人がそう念じているが、いまの世界はそれと反対の方向を向いている。
ミッション:ビジョンとファクトの違いを可視化するために自分でできることに努める。

以上を踏まえて、コメントのなかの疑問やご意見に応えさせてもらいます。
まず、Hさんが整理してくださった「私見」(上記のFB記事のコメントに出ています)についての確認です。
おおむねその通りではありますが、微妙に私の認識とはずれがあります。
イタリック体は、HさんかKさんの書いた部分の引用です。

a. 武装が戦争の抑止力となるという考えであれば平和の世界は夢のまた夢、法案よりもそれが残念でなならない。殺すより殺される方が良い。
これは私の信念です。武装するところから、すでに戦争は始まっているというのが、私の認識です。

b.もし日米安保がなかったとしたらどこの国が攻めてくるというのか。

FBに書いたのは「日米安保がなければいったいどこの国が攻めてきたのか、あるいはこれからどこの国が「軍事力で」攻めてくるのかという、素朴な疑問です」ということですが、一番の疑問は、「日米安保がなければいったいどこの国が攻めてきたのか」というところです。朝鮮戦争において、アメリカが立ち向かわなかったら中国が日本にまで攻めてきたと考えているのでしょうか。日米安保がなければアメリカは朝鮮戦争には加担しなかったのでしょうか。こうしたことも含めて、もし「日米安保があればこそ不戦を維持できた」というのであれば、そこをきちんと説明したうえで、だから日米同盟が不可欠だと説明してほしいです。
また、これからどこかが攻めてくる可能性はもちろん否定はできませんが、私の将来に関する疑問は、「軍事力で」攻めてくるのか、という点です。Hさんの整理と同じように思われるかもしれませんが、まったく違うと私は認識しています。なぜならそもそも戦争の意味がこの30年でまったく変質したと思うからです。

c.安保条約のおかげで平和が続いたというのであれば、それはアメリカによる日本侵略を条約自体が防いでくれたから。
すみません。これは少し皮肉っぽく書いてしまった部分です。真意は、日本はアメリカに組み込まれてしまっての「平和」だったのではないかということを、むしろ逆説的に含意させたのです。
d.改憲や強行採決は安倍がヒットラー並みの証拠、民主主義の蹂躙(大意)。
大意はそう伝わったかもしれませんが、安倍首相をヒットラー並みとは考えていません。 両者は、比べようもないからです。 ヒットラーは、いまの歴史では最悪に描かれていますが、いまもなおドイツ人たちが評価していることの意味をきちんと受け止める必要があると思っています。 池田浩士さんが、岩波現代全書の「ヴァイマル憲法とヒトラー」の中でこう書いています。 
あの破局的な原発事故にもかかわらず、原発の再稼働を強行するというような、もしも政府が原発資本の利益よりも国民の安全と人権を尊重していれば到底できないようなことは、ヒトラーにはできませんでした。その意味では、ナチス・ドイツの国民は、日本とは比較にならないくらい、国家によって国民として保護されていたのです。

ヒトラーの間違いは、ユダヤ人やロマ民族や労働できない人は、ドイツ人ではないと考えていたことだろうと思います。
もっとも、最近の安倍首相の難民受け入れに関する発言など聞いていると、安倍首相がヒトラーを学んでいることは伝わってきますが、ヒットラー並みとは考えていません。
「民主主義の蹂躙(大意)」は、私はそう思っています。
しかし、ここでも、「民主主義」とは何かで議論はわかれます。
議会が絶対で多数決こそ民主主義と考える人にとっては、民主主義は蹂躙されていないのでしょうから。

ともかく極めてラディカルなお考えであり、今回反対側で叫び、また追従した人たちの多くは、安全保障環境の捉え方にせよ、アメリカ不信にせよここまで徹底した考えは持っていなかったと思います。

Hさんは、そうおっしゃいますが、問題の構図と言葉の意味がたぶん私と違うのです。
私は、実体で語ることを大切にしていますので、たとえば「アメリカ不信」などという考えは微塵もありません。
いや、そもそも「アメリカ」という実体が理解できないのです。
アメリカという概念は理解できますが、アメリカという実体(たとえば、アメリカ人?アメリカ政府?)はあまりに多義的で理解できないのです。
これもブログなどでは何回も書いていますが、ステートとネーションは違うと思っていますし、国民と生活者も違うと思っています。
それに、アメリカ人と言っても、どこまで入るのか、また一言で信ずるとか信じないとか言えるような単純なものなのか。
私が理解できるのは、実体が見える具体的な存在だけです。

また、世界の構造の捉え方も大切です。
私の世界理解は「人間とシステム」の構造を基軸にしています。
私が不信感を抱くとすれば、「アメリカ」ではなく「アメリカ政府」です。
同じ意味で、いまは「日本政府」にも不信感を持っていますが、私が知っている日本の人たちのほとんどには不信感を持っていません。
もちろんアメリカ人にも不信感はありません。

ラディカルとは、過激という意味でお使いだと思いますが、根底から考え直すという意味で、ラディカルというのであれば、いま求められているのは、その姿勢だと思います。
ですから、その意味で、私はラディカルであることは否定しません。
しかし、その場合は、「極めて」という形容詞は不要です。
つまり、私にとってのラディカルとは、生活のレベルから考えようということでしかありませんから。

こうやって逐語的に対応していくと、ますます泥沼に入って見えなくなりそうですね。
アプローチを変えましょう。

戦争に巻き込まれるという危惧は確かにありますが、私にとってのもっと大きな危惧は、すでに「生活の浸食」がいたるところで進んでいることです。
今回の反対運動の激しさにも、それは現れています。
デモに行く人たちが問題にしているのは、一体何なのか。
国会デモに行くと感じますが、そこに渦巻いている怨念や機会主義、憎悪の念ややり場のない怒り。時に元気ももらえますが、時に暗い気分にもなりました。
あのデモの現場には、社会の縮図さえある。
シールズの動きにも、危うさを感じます。
推進派と反対派が、私には時に相似形に見えてきます。

委員会での強行採決の時の、自民党議員の行動をきちんとご覧になったでしょうか。
一部のテレビが詳しく報道していましたが、
公聴会の報告もせず、最終質疑もさせずに、ともかく委員長に採決宣言をさせようと、委員でもない自民党議員が、一人の議員の合図で委員長を取り巻いた行為がはっきりと映像に残されています。
これが、今回の強行採決の直接的な発端でした。
そこに言わせた山本議員に、もしわずかな良識があれば、それを防げたはずです。
安倍首相や岸田さん、中谷さんに、少しでもフェアな精神があれば、あんなぶざまな光景は起こらなかったでしょう。
もはや時間の問題だったのですから。

核兵器を貯め込み、軍事費を増強させ続け、領土領海を侵犯し、国家ぐるみのサイバー攻撃やスパイ活動の手を緩めず、虚偽誇張の貶日教育やプロパガンダの執拗さ、

これらは政府がやっていることです。
その国の多くの国民は、日本で休日を楽しんでは爆買いをしている。
政府と生活者は別の存在です。
それに、もしかしたら、相手の政府も、日本を同じように見ているかもしれません。

戦争は政府間のものだと、数年前までは思われていましたが、9.11から状況は変わりました。
戦いの構図が、政府対政府ではなく、システムと人の関係になってきているように思います。
それは、すでにベトナム戦争で展開されたことです。
ベトナム戦争から学ぶことはたくさんあるはずです。

Hさんは、為政者は「殺すより殺される方が良い」というような聖人ではないと書いていますが、為政者は「殺すより殺される方が良い」というべきではありません。
しかし拉致された国民を救えないのであれば、それは「殺すより殺される方が良い」と行動しているのではありませんか。
それは、決して「聖人」だからではないはずです。

スイスの国民皆兵制は、私は共感しています。
日本がもし、9条をすてて、武装するのであれば、国民皆兵制は当然実行すべきです。
それは、自衛隊ができた時にも考えたことです。
国民は一度、行政の仕事を体験すべきだという提言を書いたこともあります。いずれにしろ、経済的徴兵や傭兵制度ではなく、国民皆兵制を前提に議論すべきです。

さらに言えば、私は兵役拒否者ですが、私の生活している社会が攻められたら戦います。
ガンジーの非暴力主義者でありたい気もしますが、私の性格としては、たぶん戦うでしょう。
矛盾していると言われるかもしれませんが、そう思います。
スペイン戦争にさえ行きたかったくらいですし、納得できる理由での民衆の蜂起には参加するでしょう。
今回、国会デモに参加した人たちは、たぶんみんなそうでしょう。

しかし、政府が起こす戦争には加担はしたくありません。
国会デモに行かなかった人や、そういう行動にシンパシーを感じない人は、経済的徴兵主義者ではないかと私は思います。
麻生さんや安倍さんが戦いの先陣に立つことはないでしょう。
彼らの家族も戦場にはいかないかもしれません。
なにしろ福島で原発事故が起きただけで、関東から、そして日本から逃避する人たちですから。
ちょっとまた書きすぎかもしれませんが、私はいまの政府の主要閣僚は信頼できずにいます。
国会審議を丁寧に見ていると、誠実さが全く感じられないからです。
昨日の朝日新聞夕刊のコラムで、池澤夏樹さんが書いていたように、参議院の自民党議員はどう考えても、誠実ではありません。

いずれにしろ、世界の情勢は大きく変わっています。
人びとの情報共有も進み、視野も大きく広がっています。
そもそも社会そのものが、「成熟社会」と言われるように変質してきています。
そうした歴史的な大きな変化を踏まえて、いまこそ「根底から」という意味で、ラディカルに未来と平和を考えるべき時期です。

一部の人たちのための「平和」のための「戦争」から、そろそろ抜け出ないといけません。
戦争は一部の人間を利するだけです。
多くの弱い人間は、そのための駒として、犠牲を強いられます。
なぜなら、システムはシステムのために存在するからです。
守るべきはシステムであって、人ではない。

Hさんは、アメリカの銃器所持制度はどうお考えですか。
そういう生活の次元から考えることが、私が考えるラディカルな、あるいは理性的な姿勢です。

安保体制によってリスクは高まりますが、聡明で理性的なコントロールのもと、より大きなリスクは防備できると考えざるを得ません、

とHさんはおっしゃいますが、これまでの歴史は常にそういう考えで、奈落へと向かってきたような気がします。
もし為政者が聖人であれば、そうはならなかったでしょうが、そもそも聖人はそんなことを考えないのではないでしょうか。

Kさんの「強行採決」に関する指摘には少し言及しましたが、それ以外に関しては私の上記の回答は不十分かと思います。すみません。
ただ、民主主義の捉え方は私とKさんとでは少し違っているかもしれません。
たとえば、Kさんはこう書いています。

少数派勢力が採決を拒み続けて多数の意見を封じることになってしまい、少数の暴力が多数の意見を封ずることになります。そのようなことは民主主義の考えとも、日本国憲法や国会法や議院規則の内容とも合致しません。

スチュアート・ミルは、民主主義とは、マイノリティのパブリシティを保証することだと言っています。
少数の暴力が多数の意見を封ずることがあってはいけませんが、いまの世論と政府の行動にこそ、その危惧を感じます。

仮に訴訟で訴えても有効となる確率100%(院内自治ということでですが)でしょう。

そうかもしれませんが、だからどうしたというのが私の考えです。
やはりおかしいものはおかしいと言わなければいけません。
勝ち負けなどは結果であって、負けるからと言って行動をやめてしまうのは避けるべきでしょう。
制度を基準にして考えるのではなく、理念を中心に考えたいと私は思います。
そうしないとアイヒマンのような、凡庸な人間になりかねないからです。

Hさんへの回答で書いたように、私の問題認識は、システムに対して、いかにして人間は主役であり続けられるかなのです。
制度やシステムは、変えられるものだと捉えています。
ですから、憲法改正ということであれば、何の異論もありません。
またきちんとした熟議や国会審議での誠実な回答があれば、多数決で決めることにも異論はないのです。

Kさんとは、基本的なところで考えを共有できるのですが、現実的な表れのところで、共有できないのが残念です。

この1週間、最近再放映されたNHKの「映像の世紀」を見直しました。
特に第二次世界大戦のところはていねいに見ました。
やはり私には、軍事力こそがすべての悪の基点のように思えてなりません。
同時に、経済格差こそが戦争の目的であり、原因であるような気がします。
貧しくても、みんなが穏やかに暮らせる社会。
その「みんな」には、中国の人たちも、ISの人たちも入っているといいなと、心から思います。

あんまり満足いただけない回答になってしまったかもしれません。
後はブログで補足していきます。たぶん、ですが。
時間ができた時に、ぜひ湯島でお話し合いができればうれしいです。
国会が、日本をよくするための話し合いの場になれば、さらにうれしいです。

Hさん、Kさん
ありがとうございました。

これを契機に、ブログで少し書きだそうと思います。

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