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2015/10/08

■気の萎えた3週間

ほぼ3週間ほど時評編を書かずにいました。
安保法制の成立に伴う、様々なことを踏まえて、10回シリーズで書こうと思っていたのですが、書く気力が萎えてしまっていました。
自分の考えを相対化するために、ささやかな努力もしました。
昔読んだ書籍を読み直し、ドキュメンタリー番組も見直しました。
いろんな人とも話し合いました。

その間、気力がますます萎えてしまったのは、あれほどの大きな動きがあったにもかかわらず、フェイスブックでは相変わらずの日常が流れてきますし、マスコミも基本的には「終わった話」にしてしまっているからです。

そもそも参議院の特別委員会で強行採決が行われた日に、国会デモに行った帰り、霞が関を歩いていて、国会から少しだけしか離れていない霞が関では、省庁のビルから、平和そうな人たちが、何もないように話しながら出てくる姿を見た時に、言いようのない無力感に襲われたのが、気が萎えるきっかけでした。
笑顔で話している省庁のビルから出てくる男女を見ていたら、昔、映画で観た、ナチスドイツの強制収容所でガスを送る仕事をまじめにやってきた官吏が、自宅につながる階段を楽しそうにトントンとのぼっていく場面を思い出しました。
彼には、仕事が終わった後は、家族との楽しい晩餐が待っているのです。
ちなみに、この場面は、鮮明に残っているのですが、どの映画だったか思い出せないのです。
どなたかご存じだったら教えてください。

当日の国会周辺のシュプレヒコールに、なんとなく嫌な雰囲気を感じたことも、影響したかもしれません。
そこには、なにかルサンチマンの影を感じました。
どこか、なにかが、私が思っている世界とは違うのです。
私が、たぶん世界から外れてしまっているのです。

法案採決後も、政権支持率は大きくは変わらなかった。
世間的に影響を与えられる立場にある人たちも、新たな行動を起こさなかった。
ということは、私がやはり間違っているのかもしれません。
何が間違えているのか、自らを問い質しても、どうも間違いが見つかりません。
もしかしたら、間違いは、私自身が「行動を起こさないこと」かもしれません。
しかし、行動を起こす気にどうしてもなりません。
デモさえ、あまり行きたくなくなりました。
友人たちは、訴訟を起こしたり、さらなるデモを行ったりしています。
そうした動きにも、どうも参加できません。
自分ができることは何かと考えて、話し合いの場を呼びかけても、なかなか思うように人は集まらない。
それでも、私ができることと言えば、話し合いをする場をつくることくらいです。
そうした、「変わらない自分」にも、少し疑問が生まれてきている。

どれが因で、どれが果かさえ、わかりません。
ともかく、気の萎えた3週間を過ごしていたわけです。
でも萎えているだけでは、ますます萎える一方でしょう。
ともかくまた時評編を書こうと思います。

この3日間、わが家の農園に行って、土いじりをしていました。
そのおかげで、少しだけ、元気が出てきた気もします。
明日から時評編を再開します。

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