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2015/10/20

■安保法制騒動を考える6:自衛の主語

今日は「自衛」について考えてみます。
パリ不戦条約でも各国の自衛権は放棄されませんでした。
国家単位での武力行使一般を違法とした上で、侵略国への対応に関しては、世界全体で行おうというのが集団安全保障という構想でした。
国家による暴力の管理という「近代国家」構想を、そのまま世界に拡大しようとしたわけです。
しかし、状況はまだ熟してはおらず、集団安全保障を担保する仕組みは実現しませんでした。
ですから自衛権は国家の権利として残ったわけです。

ここで問題は、自衛権によって衛(まも)られるものは何か、ということです。
国家や国民だろうと思うでしょうが、その両者は同じものではありません。
国家が国民にひどいことをする場合もありますし、国民が国家を転覆させることもあるからです。
これに関しては、これまでも何回か書いてきました。
国家(ステート)と国民(ネーション)は違うものです。
だからこそ国民国家(ネーション・ステート)という言葉もあるわけです。
両者を別のものだとすれば、そのいずれが「自衛」の主語になるかを考えると、これも悩ましい問題です。
私は、「国家の自衛権」とか「自衛戦争」という言葉は、もはや存在しない概念だと思っています。
国家というリヴァイアサンが自衛権などもってしまえば、国民はたちうちできなくなるはずです。

しかし、そもそも国家という制度(仕組み)が、「自衛」するとはどういうことでしょうか。
このシリーズの「その4:平和と秩序」で引用させてもらいましたが、木村草太さんが言うように、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」とすれば、国家の目的は、「国民が人間らしく安心かつ幸せに暮らせること」です。
つまり、国家はそのための「手段」なのです。
まさにマートンの言う「目的の転移」に注意しなければいけません。

国家は法的な擬制はともかく、基本的人権のようなものを持つ存在ではありませんし、何よりも国家という行為の主体がいるわけではありません。
ですから、国家が持つ権利もまた、人間が持っている権利とは全く違ったものです。
つまり、国家は所詮は、制度(システム)でしかないのです。
国家が、自らの存在を自衛するという意味は、実際には、国家を統治している現在の政府の体制を維持するということであり、そこでは、国民は国家という制度に従属する要素としてしか位置づけられません。
そもそも「制度」には自衛権などあるはずもありません。
それこそ、それはSFの世界の話です。

国家の自衛権が何を意味するか。
それは、北朝鮮をイメージすれば、すぐわかることです。
あるいは、国家のためという口実で、多くの人が死んでいった太平洋戦争を思い出してもいいでしょう。
国民は、国家の自衛活動では、決して守られることはありません。
国家の自衛権がなんとなく国民の自衛につながるのは、戦争の構造を見誤っているからです。
「だれがだれに対して何を自衛しているのか」を見据えなければいけません。
国家のためと言って、国民が殺されるようなことがあれば、それはそもそも国家という制度の大きな目的に反します。

社会的共有資本の問題に取り組んだ宇沢弘文さんは、政府は統治機構としての国家ではなく、市民の基本的権利の充足を確認する役割をはたすものだと言っています。
その意味をしっかりと受け止めたいと思います。
コラテラル・ダメッジなど、決して許されることではありません。

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