■疑念3:理念と現実
私は、非暴力抵抗論者ではありません。
頭ではそうなりたいと思っていますが、身近な誰かが不条理な攻撃を受けたら、暴力行為に加担しないという自信はありません。
そのくせ、安保法制騒動考もそうですし、この疑念シリーズの2回目もそうですが、軍事力による防衛には否定的です。
その点について、納得できないと友人からも繰り返し、指摘されていますが、自分としても矛盾していると思うこともあります。
これに関して、今回は「理念と現実」を考えたいと思います。
それでもう少し私の考えをわかってもらえるかもしれませんので。
野崎泰伸さんの「「共倒れ」社会を超えて」(筑摩選書)という本があります。
私が自らの発想の貧しさに気づかされた本の1冊です。
野崎さんは、「生の無条件の肯定」のために、「生の条件を正当化するようなすべての思考を拒否する」と書いています。
この言葉には私はドキッとさせられました。
それはともかく、この本の中で、野崎さんはこう書いています。
倫理とは、「私たちが共に豊かに生きていくための、侵すべからざる掟」であると私は考えています。 それは、どのような状況においても守られるべき「掟」ではなく、実現不可能であったとしても、それがなければ社会が存立し得ないような戒律のようなものだと言えるでしょう。 つまり、倫理とは、ある状況下における行動規範のことではなく、それがなければ社会は人間のただの寄せ集めにすぎず、お互いが孤立した存在になってしまう、そのようなものだということです。
私が、相手を信頼して、軍事力などに依存しないことこそが、最高の抑止力だと主張しているのは、野崎さんが言う「倫理」に当たるものです。
それは、私にとっての「信条」であり、生きる指針としての理念です。
理念は、行動を支えるものですが、具体的な行動を規制するものではありません。
ましてや、自らが縛られるものでもありません。
理念と現実は、相互に支え合う関係ではあっても、相互に殺ぎ合う関係にはありません。
だから私は、状況によっては「武装」を否定はしません。
不条理な攻撃に自分の世界がさらされれば、「武器を取って戦うこと」も否定はしません。
しかし、それは決して「抑止力」にはならないだろうと思っているのです。
実際に戦争になれば、軍事力や軍事同盟は「対抗力」にはなるでしょう。
しかし、だからと言って、戦争を収束するとも言えません。
そもそも「戦争」は起こった時点で、すでに人々の暮らしは大きな損害を受けているでしょう。
戦争を喜ぶ生活者は、一人もいないはずです。
大切なのは、マートンがいう「大きな目的」なのです。
私たちが望んでいるのは、戦争がない社会ではなく、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会です。
それが、私が考える「理念」です。
その理念があって初めて、自らの生き方が考えられる。
しかし、理念を絶対視するのではなく、理念を実現するために、その時々の状況の中で最善を尽くすということです。
そういう視点からの最高の抑止力は、人の心の中にあると思っています。
軍事力に依存して戦ったベトナムや中東で、何が起こったか。
南シナ海に米軍が出てきたことで、何が抑止され、何が誘発されているのか。
よく考えてみる必要があります。
しかし、実際に他者から攻められたらどうするのか。
その時は、私は老躯にムチ打ってでも、戦いに馳せ参じます。
時すでに遅いのではないかと言われるかもしれませんが、それは仕方がありません。
ここで大切なのは、何を守るのかです。
私が守りたいのは、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会です。
相手が攻めてくるかもしれないので、軍事力で相手を威嚇するということであれば、それはすでに「みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会」ではありません。
軍事力に守られた安心は、本当に安心なのでしょうか。
結局、みんなが気持ちよく安心して暮らしていける社会を目指すために戦うのではないかと言われるかもしれません。
しかし、言葉の遊びと言われそうですが、「目指すため」と「守るため」とは全く違います。
私が戦うのは、「守るため」だけです。
それも、自らを守るために戦うのではありません。
理念を守るために戦うのです。
こう書いてきながら、やはり説得力が弱く、「共感できない」というコメントをまたもらいそうです。
もう少し考えなければいけません。
しかし、それにしても、多くの日本人や日本政府が、最初から「争いや戦いのない社会」などあり得ないと思っていることを、不思議に思います。
人はそもそも支え合ってきたからこそ、生物的に弱い存在なのに、生き延びてきたのではないか。
それを私は忘れたくありません。
現実から理念を考えるのではなく、理念からこそ現実を考えていきたいと思うのです。
理念に反する現実が、少しでも少なくなれば、もっとみんなが快適に暮らせるようになると思っています。
まずは、私自身の考えを変えて、理念を基軸に生きる。
私が確実にできるのは、それくらいかもしれません。
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