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2015/10/29

■疑念2:和を尊ぶ国民性はどこに行ったのか

中野剛志さんの「TPP黒い条約」(集英社新書)のはじめに、こんな文章があります。

日本人は、元来、和を尊ぶ国民性をもっていた。それが明治になって、他人を自己の敵とみなすかのような西洋の対人関係や、正邪・善悪・権利義務をはっきりさせようとする西洋の制度がもち込まれた。そして、日本の文化や日本人の国民性を省みない、性急かつ無批判な近代化が進められたのである。これこそが、日本および日本人の混乱の原因である。

これがもし本当であるとすれば、私はちょっとうれしくなります。
人間とはそもそも「和を尊ぶ」本性を持っていると思っているからです。
ただ、そういう本性は、実際にはなかなか現実化しません。
石器時代はともかく、最近の文明化された社会は生きづらいからです。
ですから、日本人は元来、和を尊ぶ国民性をもっていたなどと言われるとうれしくなるのです。
しかし、「和を尊ぶ国民性」は、いまはどこに行ってしまったのか。

一昨日(2015年10月27日)の朝日新聞天声人語に、こんな言葉が紹介されていました。

「わたしたちは、みんなおたがい助け合いたいと望んでいます。……わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです。」

これは、チャプリンの映画「独裁者」に出てくる、有名な結びの演説です。
互いに助け合って生きれば、飢餓など起きないと、インドの経済学者アマルティア・センは言いました。
人類学者サーリンズは、石器時代には「富を持つことは負担だった」と書いています。
富を持つことに価値を持ち出して、文明を生み出して以来、人は「和」を忘れがちです。

争いを前提に政治を行うのではなく、和を基本に政治を行うことはできないのか。
私が、安保法制騒動考で書いた時の基本にある考えは、そういうことです。
しかし、日本政府はもとより、最近の日本人は、「和」からは発想しないのかもしれません。
そうだとすれば、私にはとても残念なことです。

「和」の対極にある一つの考えは、「分断」です。
辺野古基地周辺の住民たちにお金をばらまいたのは、明らかに住民分断策です。
「和」とは、真逆の政治の象徴です。
政治だけではなく、最近の経済の方向も、「和」ではなく「分断」を目指しているように思えてなりません。
マスコミさえもが、「分断指向」を持っているようにも思えます。
この指向は、海外にも向かうでしょう。

「和」には「小さな和」もあれば「大きな和」もある。
「小さな和」は、時に「大きな和」への障害になります。
特に、内を向いた「和」は、対外的には攻撃的になることも少なくありません。
戦争が起きると、必ずと言っていいほど、内部的には「和」が出現します。
そうならないためには、「和」は開かれていなければ、いけません。
「和」は、そのまま、平和につながるわけではないのです。

安保法制騒動考の第1回目で書いた「目的の転移」を指摘した、R.K.マートンは「予言の自己成就」とか「予測の自己実現」ということも指摘しています。
「他国から攻められるかもしれないと軍事力を強化したら、それを他国が脅威に感じ、攻撃をしかけてきた」というのが、「予測の自己実現」です。
日本の戦国時代には、こうして多くの戦乱が生まれました。
たしかに、現在の世界情勢は、すきを見せたら攻められるかもしれないという思考の呪縛から多くの人は抜け出せていないことでしょう。
「内向的な小さな和」を守るために、攻められることを前提にして、結果的に「和」を否定している。
私にはそんな気がしてなりません。
今回の安保法制騒動で、自民党な一糸乱れないほどの「和」を示しました。
しかし、それはたぶん私たちが大事にしてきた「和」ではないでしょう。
「和」が尊ばれるのは、異論を認識しあうことがあればこそですから。
すでに、「戦時体制」に向けて、異論を許容しない状況が生まれているとしたら、恐ろしいことです。

「開かれた大きな和」の理念を目指して、新しい国家のあり方を模索するべき時期に来ているように思います。
「開かれた大きな和」。
日本の古代の呼び方の「大和」には、そうした「開かれた大きな和」の理念があったと思いたいです。
そうした「開かれた大きな和」の理念から生まれる、平和とは何のか。
そこに国家政府による軍事力は入る余地がないように思っています。

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