■安保法制騒動を考える4:平和と秩序
少し間があいてしまいましたが、今回は安保法制の意味を考えてみたいと思います。
というのも、「安保法制」を「戦争法案」と位置づけている人たちもいるからです。
同じ法制を、平和のためと思う人もいれば、戦争のためと思う人もいる。
なぜそんなことが起こるのでしょうか。
そもそも「平和」とはなんなのでしょうか。
「パックス・ロマーナ」という言葉が象徴しているように、「平和(ピース)」にはもともと「支配による平和(パックス)」という意味が含まれています。
パックス・ロマーナは、「ローマによる平和」と訳されますが、むしろ「ローマによる秩序」と言った方が実態に合うように思います。
考え方の違う人たちが、それぞれ勝手に生きていこうとするとぶつかり合うことも多いでしょう。
喧嘩や犯罪が起こるかもしれません。
自然の猛威や外部からの攻撃に対しても、ばらばらでは対処できないかもしれません。
そういうことが起きないようにするためには、だれかが権力を持って、社会の秩序を維持していくことが効果的です。
さらには、困っている人を助けるための活動やみんなにとって有益な活動をしていくという富の再配分も、権力による秩序維持につながるでしょう。
そうしたことができれば、みんなの安全も高まるはずです。
これはある意味での「平和」と言えるでしょう。
しかし、そこからはまた、権力者による圧政という危険性も生まれます。
秩序が厳しすぎて、自由が抑圧されることもあるでしょう。
殺し合いや犯罪は少なくなっても、支配服従の関係は広がり、ガルトゥングのいう「構造的暴力」が生まれるかもしれません。
社会全体のために犠牲になる、いわゆる「コラテラル・ダメッジ」の問題もあります。
しかし、権力機構の崩壊が何を生み出すかは、フセインなき後のイラクを考えれば、明らかです。
秩序を維持する権力の存在は、現実問題としては、必要悪かもしれません。
そして、そのひとつのあり方が、国家と言っていいでしょう。
最近、報道ステーションでコメンテーターを務めている憲法学者の木村草太さんも、「国家を作る理由は、全ての人が人間らしく安心かつ幸せに暮らせるよう、しっかりした秩序を作るためである」と著書「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」に書いています。
しかし、秩序をつくることと個人の平安とは必ずしも一致しないところが悩ましいところです。
安保法制の賛成者も反対者も、戦争を回避しようと考えているはずですから、それを「戦争法案」と呼ぶのは適切ではありません。
しかし、その法制がどの視点から発想されているかと言えば、明らかに国家の秩序維持(支配)の視点です。
「安全保障」の主語は国家秩序の安全なのです。
ですから、私たち一人ひとりの平安な生活のためではなく、どういう秩序を私たちが選ぶのかが、安保法制の問題なのです。
その視点に立てば、「平和のための戦争」と言われることがあるように、「平和」は「戦争」の一形態とさえ言えるでしょう。
わかりきったことをくどくどと述べましたが、この辺りをしっかりと整理しておかないと問題が見えてこないように思います。
明日は「戦争」について整理してみます。
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