■安保法制騒動を考える5:戦争の構造
「平和」と同じく、「戦争」も捉え方の難しい言葉です。
20世紀初頭までは、戦争は、宣戦布告によって始まり講和によって終結する、国家間での政治手段であって、国家の権利の一つとされていました。
しかし、第一次世界大戦後、パリ不戦条約によって、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄されました。
ただ、条約加盟国の自衛権は否定されまませんでした。
つまり大きな流れとしては、戦争は国際的に放棄されたのであって、日本だけの特異現象ではありません。
その認識がほとんど議論にならないのが不思議です。
しかし、不戦条約違反に対する制裁は制度化されず、再び世界大戦が起こったわけです。
戦争のかたちもまた、大きく変質してきました。
国家による戦争も、総力戦と言われるように、戦争の当事者が国民全員へと広がりました。
それはある意味で、国民国家であれば、当然の帰結でもあります。
さらに、国家間ではなく、戦争の当事者が国家を超えた集団(たとえばアルカイダやIS)へと広がりました。
9.11事件によって、「テロとの戦争」が、戦争の前面に出てきてしまったのです。
戦争さえをも秩序化しようとしていた主権国家構想の崩壊が始まったわけです。
戦争の構図は、「国家対国家」ではなく「国家対反国家」へと変質しつつあります。
こうした動きを見ていくと、戦争の本質が見えてくるように思います。
つまり戦争とは国家権力のヘゲモニー争いのように見えて、実は、国家を含む体制(システム)そのものと、その構成要素である人民との対立構図になってきているのではないかということです。
そこにあるのは、制度と人間の対立構造です。
こういう言い方をすると、最近のSF映画の構図を思い出しますが、まさにその構図が現実化していると言えるでしょう。
そう考えれば、各国が競って軍事力を増強している先にあるのは、むしろ自国の国民への「支配力の強化」なのではないかと私には思えます。
戦争の構造を、国家間の横の関係からシステム(そこには当然部品化された人間も取り込まれています)と個々の暮らしを持つ人間との関係に置き換えると、まったく違った風景が見えだします。
前に、このブログでも「メアリー・カルドーの提言」を書いたことがありますが、戦争の先にあるのは「人道」や「人権」なのです。
軍隊が殺傷した人間は、他国人よりも自国人のほうが多いという統計を何かで読んだことがあります。
軍隊というシステムが見ているのは、仮想敵国だけではありません。
戦争概念が広がった現在、国内の秩序をかく乱する存在は、軍隊の敵になっていくことは言うまでもありません。
敵は本能寺なのかもしれないのです。
「戦争法案」と決めつける前に、戦争の構造、あるいは「危険にさらされるもの」をきちんと確認する必要があるのではないかと思います。
戦争法案と言っている人の「戦争」は、誰が攻め誰が攻められるのか。
それも軍事力で。
現実問題としては、私にはまったく考えられません。
この70年は、そういう存在にならないように努力してきた70年だったと思うからです。
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