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2015/10/06

■節子への挽歌2955:行楽の秋のさびしさ

節子
秋晴れの良い天気です。
最近また時評編が全く書けず(書く気が起きず)にいます。
その分、なにやら挽歌に時評編的なことが入り込んできているような気がします。
ゾーエとビオスの融合などともっともらしいことを言っていますが、現実の人間は、そんな理屈とは関係なく、一体化していますから、当然のことなのですが。

秋と言えば、行楽の秋ですが、節子がいなくなってからは、行楽から無縁の生き方になっています。
別に行楽地に行くとか行かないという話ではありません。
気持ちがそうなっているということです。

愛する人を喪った人でも、元気そうに見える人はいます。
しかし、そういう人に限って、実は元気ではないのかもしれません。
時々そんなことを考えることもあります。

しかしその一方で、愛する人を喪ったことのない人などいないだろうとも思います。
生きるということは、たぶん誰かを愛することですから、愛する人を喪うことは、限りある生命を生きる人間にとっては、不可避なことです。
もっとも、生きるということがなぜ誰かを愛することなのかと問われれば、答えに窮します。
私がただ、そう思っているだけなのかもしれません。
しかし、もしそうであれば、つまり、生きるということが誰かを愛することなのであれば、生きている私は、決して愛する人を喪っていないということにもなります。

たぶんこういうことなのではないか。
愛する人を喪うことなどないのです。
ただ会えなくなるだけの話なのです。
そこに気づくまでに、私の場合はかなりの月日が必要だったわけですが。
要するに、愛する人を喪ったからさびしいのではないのです。
会えなくなったから、一緒に行楽に行けなくなったから、さびしいのです。

そんなわけで、行楽の秋は、とりわけさびしさがつのるのです。
特に、節子は紅葉が好きでしたから、なおさらです。
高尾山に一緒に行ったときの、見事な紅葉を時々思い出します。
今日のような、気持ちのいい、秋晴れの日でした。
あの時、山頂で出会った見ず知らずの3人組の男性たちのことも、時々思い出します。
あの人たちは、いまも高尾山で鍋を食べているでしょうか。
節子にも会いたいですが、彼らにも会いたいです。
そんなことを思い出させる、秋の空です。

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