■節子への挽歌2968:些少な不安が山のように溜まっているようです
節子
気持ちのいい秋晴れです。
もしかしたら今頃は、世間との付き合いをやめて、湯河原で2人で過ごしていたのではないかという思いがちょっと心に浮かびます。
こんな日は、箱根の恩賜公園でおにぎりでも食べていれば、彼岸にまけないほどの平安を味わえたかもしれません。
それももう果たせぬ夢になってしまいました。
この数日、何か不思議なほどの「不安感」に襲われています。
まだ払拭はされていませんが、口に出せるほどには落ち着きました。
ひどい時には、その不安感を口にするだけの勇気さえ出てこないのです。
友人たちと入間市を散策したり、自宅で地元の集まりのための打ち合わせをしたりして、この週末は過ごしましたが、人と一緒の時には忘れていますが、そんな時にも、突然、「不安感」が首をもたげることがあります。
意識的には消せるのですが、身体は嘘をつけません。
無理に押さえようとしていたせいか、昨夜は胃が痛みだし、後頭部にも違和感が出てしまいました。
一晩寝てだいぶ良くなりましたが、そういうのは気にすると気になってしまいます。
こういう時には、畑に行って、土に癒してもらうのがいいでしょう。
子どもの頃は、不安はすべて親に言うだけで解決できると思っていました。
実際には親に言ったことは1回しかありませんが、いまから考えると瑣末な不安感でした。
しかし、何かあれば引き受けてくれる(と思える)存在が身近にいるのは、それだけで救いになります。
不安は、吐き出すことだけで、かなり解決されるのです。
しかし、これといった大きな理由からの不安感でない、いろんなことの積み重ねからの不安は、吐き出しようもありません。
そういうものは、たぶん日常的に吐き出す仕組みが必要なのでしょう。
溜め込んでいると、自分の中で悪性の不安に育っていくのかもしれません。
夫婦のたわいもない日常の会話が、そうならないようにきっと働いていたのです。
そうした会話がなくなってから9年。
いろんなことが溜まっているようです。
こんなにいい天気なのに、奇妙な不安感から抜け出せないのは、不思議です。
実は、その「不安」のせいで、最近また、ミスが増えています。
他者に迷惑をかけることはまだないのですが、私自身には結構「迷惑」がかかるミスなのです。
それでまた、不安感が増してくるのかもしれません。
そういう時には、実に瑣末なことが大きく感じられるのです。
一昨日、入間を一緒に歩いた人が、最近湯島のサロンが多いことに、佐藤さんの怒りを感ずると言われました。
その人が言ったのは、「時代に対する怒り」という意味だと思いますが、「怒り」は「自分への不安」と言ってもいいのかもしれません。
外部から見ても、最近の私はいささかおかしいのかもしれません。
しっかりしなければいけません。
午前中は、結局、畑に行けませんでした。
最近は、自宅に居てもネットや電話を通して、世間がどんどん入ってきます。
午後は、すべてを切って、畑に行きましょう。
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