■疑念10:なぜ人は戦場に行くのか
疑念シリーズも最後になりました。
最後は、なぜ人は戦争に行くのだろうか、ということを考えてみたいと思います。
戦争を起こすのは、権力者かもしれませんが、戦争を実際に遂行するのは、私たち人間だからです。
最近の原発再稼働の報道で、機会にスイッチを入れる作業員を見ていて、この人がいなければ原発は再稼働しないのにな、といつも思うのです。
その作業員の人を非難しているのではありません。
その作業員の方だけではなく、たくさんの「人間」が実際に再稼働作業に取り組んでいるからこそ、原発は再稼働しているわけです。
政府の決定だけで、原発が動き出すわけではありません。
同じように、戦争も宣戦布告しただけでは始まりません。
誰かが戦場に行って、「殺し合い」を始めなければ実際の戦争は始まりません。
と、思いたいのですが、実際には「政府の決定」だけで物事が動くことが少なくない。
どうしてでしょうか。
戦争が始まると、なぜ、生命の危険を恐れながらも、人を殺しに戦場に行くのでしょうか。
「国を守るため」なのでしょうか。
「赤紙」(召集令状)1枚で、なぜ人は戦場に行ったのか。
最近、「安倍「壊憲」を撃つ」(新書 2015)という本を読んでいたら、憲法学者の小林節さんがこんな発言をしいていました。
フランスやアメリカの場合は、国家で一番偉いのは個々の国民だという思想が徴底している。だから、中央政府というのは雇われマダムだという意識が強い。日本は一番上に天子様がいたから上が偉い。どうしても上に向かってお辞儀してしまう。もうこれは民族性なんです。私もこの意見に魅力を感じますが、「民族性」と言ってしまうと思考停止になってしまいます。 それに江戸時代に日本列島に住んでいた「民族」は、どうもそうではなかったのではないかと思えてならないのです。
400年近く前に、10代のラ・ポエシはこう書いています(「自発的隷従論」)。
あなたがたが、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。そして、彼はこう呼びかけます。
もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。戦争の根源は、もしかしたら自らのうちにあるのではないか。
ユネスコ憲章の宣言は次の言葉から始まります。
戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。つまり、人の心の中には「戦争の芽」があると言っているのです。
ラ・ポエシはまたこうも書いています。
みずからの自立を守るために戦う自由な軍とその自立を妨げようとする軍と、どちらが勝利を収めると推測できるだろうか。答は明白のような気がします。
つまり、戦争の勝敗は、実は決まっているのです。
ただし、それは意思を持つ人間の場合です。
人が自らの意思をもたなくなってしまった時代の戦争は、どうなるのでしょうか。
そして、もしかしたらいま、日本はそういう状況になってきているのではないか。
私がいま最も危惧する戦争は、思考する意志を持ちつづける生き方を妨げるものとの戦いです。
戦場は、海外やどこか遠くにあるわけではありません。
私たちの生活の日常の中に、実はすでに「戦争」は芽吹いている。
「赤紙」で動くような生き方からは抜け出なければいけない。
毎日そう思いながら生きていますが、それはそう簡単なことではありません
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