■節子への挽歌2988:死の経験の原型は大切な他者を失うこと
節子
今朝の朝日新聞のコラム「折々のことば」で、鷲田清一さんが、秦恒平の「死なれて・死なせて」の本から、次の文章を紹介しています。
「死んだ」者よりは「死なれた」者の方が、やはり、叶(かな)わないのである。つらいのである。
そして、鷲田さんはこう解説しています。
英語の自動詞に受動態はないが、日本語には、「死ぬ」という自動詞にも「死なれる」という受動態がある。死ぬ人でなく、死なれる人に思いを重ねるのだ。人は自らの死を恐れるが、その死は想像するだけで体験はついにできない。そのとき自分も消失しているのだから。死の経験の原型はだから、大切な他者を失うというところにある。
私も、節子との別れを通じて、「死」とは自分のことではなく他者のことなのだと実感しました。
死は、自らにはないのです。
だとしたら、たぶん「自死」という概念はあり得ないのですが、これに関しては、いささか微妙な問題があって、当事者の気持ちを見だしかねないので、これ以上書くのは止めます。
この数年、自殺がない社会を目指す活動にささやかに取り組んできていますが、こういう考えにたどり着くと、なかなか活動にも迷いが出てきてしまうのです。
運動は「思い」がないと続けられませんが、「思い」があると運動ができなくなることもあるのです。
それはそれとして、秦恒平の言葉は、改めて心に刺さります。
秦恒平の、その本は知らなかったのですが、さっそく、注文しました。
本の紹介にこう書いてありました。
私たちは一生のうちに、かけがえのない人に何度も「死なれ」、愛する人を何人も「死なせ」てしまう。死の意味の重さは、死なれて生き残った者にこそ過酷に迫る。生きて克服するしかない死別の悲哀を、自らの人生に重ねて真率に語る。
23年前に出版された本でした。
いつの時代にも、人は死別によって、人生を変えていくのでしょう。
「生きて克服するしかない死別の悲哀」
まさに、死は生きるということと重なっているのです。
死者は、死について悲しむこともないでしょう。
今日は秋を感ずる、穏やかな日になりました。
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