■節子への挽歌2994:「ジハーディ・ジョン」の死
アメリカ政府は、「ジハーディ・ジョン」と呼ばれる過激派組織「イスラム国」(IS)の戦闘員を空爆し、ジョンは死亡したと思われると発表しました。
以前、ビン・ラディンが殺害された時のことを思い出しました。
この報道を娘と一緒に見ていて、人の死を喜ぶという心境が理解できないとふと声に出したのですが、娘から、もしお父さんが人質になっていて、生命の危険にさらされていた時に、その犯人が警察によって射殺されたら、お父さんは喜ぶでしょうと指摘されました。
安心はするが喜ばないと思うと答えましたが、少し考えてから、もしそうなったらたぶん私も喜ぶだろうと言い直しました。
人の死を喜ぶということは理解できませんが、実際にはそうなるのかもしれません。
しかし、人の死を悲しまずに喜ぶことさえあると思うと、なにかとても寂しい気がします。
生とは、いったいなんのか。
人が、自らの生を守るためには、他者の死が必要になることがあります。
人に限定しなければ、生は他者の死によって支えられている。
私たちは、動植物の生命を食べることによってしか、生きられないからです。
考えてみれば、生きるということは殺生と重なっています。
その点、植物は違います。
他者を犠牲にすることなく、周辺の生命に恩恵を施しながら生きています。
なんと幸せなことか。
しかし人間は、植物のような生を生きることはできません。
であればこそ、自らが決められることにおいては、他者に恩恵を施すことに心がけたいものです。
これが、私の生きる上での信条の一つです。
他者に恩恵を施すというと誤解されそうですが、それは、いわゆる「恩送り」の意味です。
他者の生に支えられて生きているのであれば、私もまた他者の生を支える存在であることを願いたいということです。
しかし、この信条は実行するのがなかなか難しいのです。
仮にしたとしても、時に「恩着せ」意識が残っています。
「恩着せ」するくらいなら「恩送り」などしなければいいのですが、まだまだ時に虚しくなることがある。
相手を信頼していればこそ、それが否定されると無性に悲しくさびしくなる。
「恩送り」も、そう簡単なことではないのです。
「ジハーディ・ジョン」の死は、ISの仲間からは悲しまれたことでしょう。
彼の行為は、たしかに残虐で許しがたいものですが、そうせざるを得なかった事情もあるのでしょう。
「ジハーディ・ジョン」の魂に平安が訪れるように、祈りました。
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