■節子への挽歌2993:訃報はなぜ2度とどくのか
節子
また訃報が届く季節になりました。
年末に訃報を出状するという文化は、どうもなじめません。
とりわけ年賀状を出すのをやめてからは、なおさらです。
付き合いのある人は、なんとなくどこかから訃報は届きます。
もう一度、訃報をもらうのは、あまり気分のいいものではありません。
あまり付き合いのない人に関しては、訃報が届かなければ、最近連絡がないが元気にしているだろうなと思っていられます。
あえて訃報をもらわないほうが、私の場合はうれしいです。
元気でいるだろうなと思っていられるからです。
それにいずれの場合も、はがきで届く訃報に、どうも違和感があるのです。
それも、多くの場合、会ったことのない人からです。
これは私だけのことかもしれませんが、
この歳になると、親しい友人でもそうしばしば会うわけでもありません。
そうなると、その人が現世にいようと彼岸にいようと、そう違いはないのです。
もう20年ほど前に私よりもずっと早く旅立ってしまった若い友人がいます。
彼は、私の世界の中では、まだ生きていて、ただなかなか会えないだけのような気もしています。
毎年、年始に1度だけ、メールか年賀状を送ってくれる若い友人が何人かいます。
今年こそ合いに行きますと言いながら、この数年、普段は全く音信はありません。
それと、彼岸に旅立った友人と、どこが違うのか。
まあこの歳になると、あんまり違う気もしないのです。
毎日会っていた節子の場合は違いますが、滅多に会うこともない友人の場合は、訃報の通知が届かなければ、心を乱すこともありません。
しかし、これは、受け手側の気持ちであって、出す方の気持ちではないでしょう。
節子が旅立った年の年末、私は節子と連名で、年賀欠礼のはがきを出しました。
出さずにはいられなかった。
訃報は、友人知人に、悲しさを知ってもらうためのものなのかもしれません。
そう思えば、訃報のはがきは大事に受け止めなければいけません。
訃報が2度とどくのは、それなりの意味があるのでしょう。
今年から、訃報の通知は、仏壇に供えることにしました。
悲しさを、分かち合えるかもしれません。
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