■疑念5:さらにもう一つの戦争としての原発
TPPを「もう一つの戦争」の象徴と書きましたが、さらに「もう一つの戦争」にも言及したいと思います。
それは「原発」です。
原発を起点として見えてくるのは、システムと人間の戦いではなく、個々の人間が自らのうちに内在させている、「2つの生」の戦いかもしれません。
生のエネルギーは、「差異」から発生すると私は考えています。
これは、実に悩ましい問題です。
すべてが平安で、満ち足りていれば、それは「生きていない」ことと同じかもしれません。
生きているとは、変化することであり、その意味では「平安」ではないことかもしれません。
「差異」があれば、「秩序」を維持するために何かが必要です。
そう考えると、「戦争」と「平和」を同じコインの裏表とも思えてくるのです。
これは大きなテーマなので、今回はこれ以上書くのは止めましょう。
問題は、私たちのうちにある「2つの生」です。
原発を欲する生と原発を否定する生です。
おそらくほとんどの人の思いの中に、意識はせずとも、この2つの思いはあるでしょう。
そのため、福島の原発事故で、あれほどの生々しい体験をしたにもかかわらず、私たちは原発を捨てきれていないのです。
私は、原発は人類に埋め込まれた「自死装置」だと思っています。
先日、NHKの番組「新・映像の世紀」第1集を観て、改めてそう思いました。
もしまだ観ていない方がいたら、ぜひ見てください。
http://www.nhk.or.jp/special/eizo/
そして、私たち日本人は、その原発のとりこになってしまいました。
すでに日本列島の各地に原発ができています。
視点をかえれば、これは巨大な自爆装置を日本列島に埋め込んでしまったということです。
ここに、意図的な攻撃か、あるいは事故による航空機の激突か、さらには自然災害の直撃か、理由はともかく、破壊的な力が働いたらどうなるのでしょうか。
これは、「戦争」ではないかもしれません。
しかし、万一そんなことにでもなれば、私たちの「安全保障」は守られようもありません。
原発が原爆化するだけが問題ではありません。
原発の稼働によって発生する放射性廃棄物は、いまの展望では、じわじわと私たち人間の生命をむしばんでいくでしょう。
私たちは、そうした極めて「危険な状態」の中で、「他国からの攻撃」を心配している。
私には、それが滑稽にさえ思えます。
なぜそんな危険な装置を維持しているのか。
それは、一度獲得した物質的な利便性や経済的な成長への思いを捨てられないからでしょう。
原発は生命になじまないものと考えている私も、だからといって、原発依存社会から抜け出すわけにはいきません。
悩ましいのは、原発が引き起こしている「戦争」の敵は、実は私たち一人ひとりの心の中にいることです。
敵は「原子力ムラ」の人たちではないのです。
もし本気で、人間の安全保障を考えるのであれば、原発は一刻も早く廃炉していくべきです。
海外に原発輸出するのも止めるべきでしょう。
世界的な脱原発運動を起こさなければいけません。
福島で起こった原発事故さえもきちんと原因究明せず、うやむやの中で原発再稼働に動き出しているなかで考える安全保障とはいったい何なのか。
原発と安保法制は、深くつながっていることを認識しなければいけないと思っています。
この戦争を避けるには、私たちが自らの生き方を変えることしかないように思います。
まずは一人からでも、変えなければいけません。
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