■戦争と平和を考える3:戦いの当事者と被害者
戦いは、いつの時代も、弱い人が被害者になり、強い人が利益を享受する構図になっています。
それは、ある意味で仕方がないことですが、問題は、被害者が戦争の当事者であるとは限らないことです。
戦争の当事者は、勝った側が利益を享受し、負けた側が損失を受けるわけですが、しかし、必ずしもそうとも言えません。
例えば第二次世界大戦後の日本やドイツのように、運の悪い人が処刑されたとしても、多くの戦争を起こした人たちは、戦後の国家秩序維持のために結局は権力者として残ることが多いのです。
その典型が日本の岸信介ですが、そこまで目立たなくとも、敗戦国でさえ、官僚の多くは官僚に居座るのです。
ナチスドイツの場合も例外ではありません。
なぜそうなるかといえば、システムを維持するためです。
つまりは、システムが結局は勝つということです。
これは、黒沢明の「七人の侍」でのメッセージとは真反対です。
しかし、システムにとっての不可欠の要素である農民が残るのは、ある意味では当然なのです。
ここに、問題のなやましさを感じます。
フセインのイラクは、そうではありませんでしたから、ISのようなものが生まれてしまったわけです。
国家とは別のシステムが生まれてしまったわけですが、このグループがステートを名乗っているのは、実に象徴的です。
いずれにしろ、アルカイダやISと欧米政府は、戦争の当事者能力を持っているという点で同じ仲間です。
しかし、最近の戦争は、戦争を始める当事者ではない人々を、戦争に巻き込んでいきます。戦争の被害者は、そこに発生します。
それは、戦争の敗者ではなく、戦争の被害者としか言いようがありません。
「戦争の敗者」と「戦争の被害者」は、別なのです。
とすれば、「戦争」は、被害者の視点で捉え直していく必要があります。
そうすると、いまとはかなり違う「戦争・平和論」が構想されるような気がします。
「戦いに勝つ戦争論」ではなく、「被害者の出ない平和論」です。
こうしたことを象徴的に告発したのが、ナビラ・レフマンさんです。
パキスタン北西部に住んでいる11歳の少女です。
彼女は家族と一緒に、畑で野菜を摘んでいた時に、アメリカ軍のドローン無人機の攻撃で祖母は死亡。爆発でえぐれた地面に肉片が散ったといいます。
彼女自身も吹き飛ばされ、右腕から流血。家族8人も負傷したそうです。
ちょうど、その2週間前、同じパキスタンの少女でパキスタン・タリバーンに銃撃されたマララ・ユスフザイさんは世界の注目を浴びました。
アメリカではオバマ大統領が面会し、ノーベル賞まで受けました。
ところが、同じようにアメリカに悲劇を訴えに行ったナビラさんを、アメリカ政府はほとんど無視したのです。
私たちは、ともすれば、欧米政府とISが戦っているように思ってしまいます。
しかし、ナビラさんにとっては、欧米政府とISも同じなのです。
これをどう考えればいいのでしょうか。
戦争の被害者は当事者とは限りません。
最近の戦争においては、むしろ戦争の当事者ではない人たちが被害者になることが多い。
だとしたら、戦争の捉え方を変える必要があるのではないか。
私はそう思っています。
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