■節子への挽歌3001:モーニング・ワーク
節子
この挽歌は、節子への挽歌というよりも、私自身のモーニング・ワーク(mourning work)、つまり「喪の仕事」になっていることは昨日も書きました。
節子は私が書き続けていけるように、いろんなことを残していってくれたのかもしれません。
3000回書いたところで、モーニング・ワークということを考えてみようと思います。
一般に、モーニング・ワークといえば、「故人をしのび懐かしむ行為」という意味でしょうが、そうした行為への思いは、さまざまです。
はじめは、再会を願う気持ちが強いですが、それが叶わないことを受け容れていく過程で、フロイトが言うように、「死者に対する恨みや怒り」といったネガティブな感情の反省・想起が起こることもあるといいます。
愛する人を喪ったことを受け容れるためには、そうした反対の気持ちを持つことで、心身をバランスさせるということなのでしょう。
頭ではよくわかりますが、実際にはフロイトの言うようなネガティブな気持ちは、たぶん起こらないと私は思います。
私も時々、位牌に向かって、節子に悪口を吐くことがなかったわけではありません。
なぜ先に逝ったのか、遺されたもののほうがたいへんだよ、とか、です。
しかし、そこにネガティブな気持ちなど、微塵もありません。
「死者に対する恨みや怒り」もまた、愛するものへの愛情の表現なのです。
ただ、この挽歌にも見られるように、後悔や罪悪感などが浮かんでくることはありますが、それも決してネガティブな気持ちではありません。
私にとっての、モーニング・ワークは、節子をすべてそのまま受け入れることです。
良い悪いとか好き嫌いは、そこでは全く意味をもたなくなっていきます。
すべてを受け容れていくと、いまの自らもまた受け容れられるようになります。
後悔の念もまた、「あれでよかったのだ」と思えるようになってきます。
そして、「死別」さえもが、素直に受け容れられてくるのです。
そして心が安堵する。
安堵したからと言って、悲しさや寂しさがなくなるわけではありません。
しかし、悲しさや寂しさはあり、突然に涙が出てくることさえある。
しかし、それが日常になってくるのです。
モーニング・ワークが日常になる。
喪が明けるとは、喪が日常化するということかもしれません。
そして、周りの人たちがすべていとおしく、やさしく感じられます。
愛する人の死は悲しいことです。
しかし、愛する人は、死別の哀しさだけではなく、生の意味にも気づかせてもくれます。
私にとって、モーニング・ワークこそ、節子からの最高の贈り物かもしれません。
そう思えるようになることが、モーニング・ワークの意味かもしれません。
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