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2015年12月

2015/12/31

■節子への挽歌3042:手持無沙汰の大晦日

節子
今年もなんとか元気で年を越せそうです。
挽歌にも書けないような「過酷」な事件もいくつか起こった年でしたが、それも山を越えて、とりあえずは私も娘たちも元気で新年を迎えられそうです。
過酷な事件だけではなく、もちろん「うれしい事件」もありました。
人生はいろいろとあるものです。

今年は、生まれて初めてと言っていいほどのゆったりした大晦日です。
午後からは、むしろ手持無沙汰の状況で、これでいいのだろうかと思うほどでした。
娘を手伝って障子の張り替えをしたり、玄関まわりの掃除をしたりして、節子がいるころとは大違いの頑張りでしたが、まあ何とかお昼過ぎには終わりました。

それで、いつもは夜中に食べる「年越しそば」を夕食にしてしまいました。
その後、もうやることがありません。
後はホームページの更新くらいですが、これもまあほどほどにしようと思います。
例年だと、除夜の鐘が鳴りだす頃までは何やらいろいろあったような気がしますが、以前はいったい何をしていたのでしょうか。
節子がいない大晦日が、なぜこんなに手持無沙汰なのか、不思議です。

今年も無事に年を超せるのは、節子のおかげかもしれません。
この挽歌を書き続けられたのも、節子のおかげです。
まあ苦労させられたのも節子のおかげですが、苦労も幸せの一つです。

そして、この挽歌を読んでくださった皆様にも感謝しています。
時々、読者からのコメントやメールもいただきますが、それがどんなに私の支え合いになっているかははかりしれません。
心から感謝しています。
時に、私と同じく、大切な人を亡くした方からもメールをいただきます。
お会いしたこともない方なのに、何やらとても親しみを感じます。
お会いして、大切な人のことを話しあえれば、どんなに心が軽くなることか。
そんな気もします。
いつかお会いできますように。
たとえ、お会いするのが、彼岸であろうとも。

今年もありがとうございました。

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2015/12/30

■節子への挽歌3041:平坦な年末

節子
娘が近くの産地直売のお店に、正月用の花を買い足しに行くというので、久しぶりに私も一緒に行ってみました。
節子がいたころは、いつも遠くの花屋さんまで一緒に買いに行ったのを思い出します。
節子がきちんと花を活けたのは、もしかしたら年始だけだったかもしれませんが、正月の活花にはかなり力が入っていました。
その文化は、節子がいなくなってからも娘が継いでいましたが、最近は、来客も少なく、花がかわいそうな感じもあって、年々、活花も小さくなってきました。
経済的な理由もあるのですが、今年はいっそ、手元の花で済ませようかとさえ話題になっていたほどです。
松はいつも早く良いのがなくなると言って、すでに娘が買っていますので、庭で咲いている水仙や千両万両、ロウバイなどを上手くいければにぎやかになるでしょう。
しかし、どうも娘はそれでは満足できないようで、やはり花を買いに行くことにしたのです。
それにユリだけは欠かせません。

下の娘が、今年最後だからとやってきて、みんなで仏壇の掃除をしました。
小さな仏壇なのですぐに終わるのですが、まあいろいろと話しながら、それなりに節子を思い出していました。

両親と同居していたころは、年末年始ともわが家は忙しかったのです。
年末の買い出しは、家族総出で出かけたものです。
お客様を含めて、毎年10人分の用意をしなければならなかったのです。
料理はすべて手作りでした。
元旦の料理が完成する頃には、除夜の鐘が鳴りだすことも珍しくはありませんでした。
いま思えば、大変なご馳走でしたが、両親のためもあって、まあ年1回の贅沢だったのです。
両親がいなくなってからは、そういう贅沢もなくなりました。
今と言えば、娘夫婦と4人での質素なお正月です。
節子がいたら、もっと楽しい食卓にしないといけないと頑張るのでしょうが。

以前は、「ハレとケ」のメリハリがありました。
そうしたメリハリも、私の両親の時代が最後だったかもしれません。
節子がいなくなった今は、私には「ハレ」はありませんが、私だけではなく、社会そのものから「ハレ」の輝きがなくなってきているように思います。

年々、大晦日が日常化してきていますが、今年はとりわけ、私には平坦な年末です。

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■金権政治と金権社会に抗うために

今朝の朝日新聞のトップ記事の見出しは「10億円「少女像移転が前提」」とありました。
一昨日の日韓外相会談での慰安婦問題での合意を報道する記事です。
これでは、交渉と言うよりも取引でしかありません。
その10億円に、私の税金も使われると思うと、やはり気が重くなります。

それにしても、いまの日本はまさに金権社会です。
すべてがお金で決着をつけていく。
しかも、決着をつける人たちは、当事者ではない人たちが、国民の税金を自分のお金のように使っての「金権解決」なのです。
そうやって原発も不条理な軽減税率も、辺野古問題も、福祉問題や環境問題もすべて処理されてきています。
国民の生命さえ、お金で取引される商品になっているようです。
なんという政府なのか。

お金が軸になる社会への予兆は1980年代にはかなり出ていました。
その時には、私はまだ企業で働いていましたが、環境や福祉が次の成長産業だなどと言われる風潮に嫌気を感じていました。
せめて自分だけでもと思い、その船から降りてしまったわけですが、いまにして思えば、あまりに利己的、そして短視眼だったかもしれません。
人は時代の流れから逃れることはできないようです。

慰安婦問題は、お金で解決できる問題ではないでしょう。
彼女たちの言い分をきちんと聞くことから解決は始まるでしょう。
少女像の移転や撤去は「手段」ではなく、「結果」なのです。
それがわからない限り、問題は解決しない。
そう思います。

辺野古問題も政府はお金で解決しようとしています。
そして原発再稼働がそうであるように、多くの人はそうしたお金に負けやすいのです。
全く情けない話です。
しかも、自分のお金でやるのではなく、国民のお金で解決するという、私には横領罪としか思えない政治家が政府を構成しているのです。
いまの閣僚たちを見ていると、人はこれほどいやしくなれるものかとさえ思います。

先日、「誤断」というテレビドラマを見ました。
お金ですべてを解決してきたビジネスマンの悲劇を描いた話ですが、現実の社会は今なお「おカネ万能」のようです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
お金に依存しないで生きていく方策はないのでしょうか。
テレビドラマ「誤断」を多くの人たちに見てほしいです。

先日、湯島で「お金だけでない支え合い」をテーマに、私が話をさせてもらうサロンを開催しました。
ある意味では、私の生き方のベースにある考え方を話させてもらったのですが、話していて、少し自分だけではなく、まわりにもその生き方を広げたくなりました。
来年から、「お金に依存しない生き方」をテーマにしたサロンを毎月開催しようと思います。できれば、話し合うだけでなく、具体的な仕組みを見つけられないかとも考えています。
最初のサロンは、たぶん1月9日か16日に開催しようと考えています。
ご連絡いただければ案内を送ります。

金権政府を倒し、金権社会を変えていくためには、まずは自らの生き方を変えなくてはいけません。

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2015/12/29

■節子への挽歌3040:昭和の生き方

節子
今年はのんびりした年末を過ごしています。
こんなにのんびりした年末は生まれて初めてかもしれません。
パソコンにもあまり向かわないのも、のんびりした一因かもしれません。
26日までは湯島のサロンがありましたが、それが終わってから、ほとんど何もすることなく過ごしています。
今年もあまりにいろんなことがあったため、正直、少し疲れて、思考力がなくなっているせいもあります。

その怠惰さの中で、一昨日、録画していたWOWOWテレビドラマ「誤断」6話をまとめてみてしまいました。
舞台は薬害事件を抱える大手製薬会社。
会社の繁栄と存続を優先する上司と薬害事件の隠蔽工作を指示された若手社員の主人公を軸に、さまざまな「生き方」「幸せ」を問題提起するドラマです。
経済的に貧しい時代に育った「上司」はすべてをお金で解決しようとします。
主人公は、その生き方に疑問を持ち出す。
結局、小林稔さんが演ずる「上司」に、「誠意」で立ち向かった主人公が「勝つ」のですが、最後が実に「残酷」なのです。

主人公の上司がこうつぶやきます。
「俺はどこで生き方を間違えたのだろうか?」
その上司に主人公は「時代が変わっただけです」と答えます。

その上司に生き方は、私とは正反対だと思いながらドラマを見ていましたが、もしかしたら私もその上司と同じ生き方になっていたのではないか、と今日になって、ふと思ったのです。
わたしも、間違いなく、「昭和」を生きた人間ですから。
ちなみに、その「上司」は、お金で解決するのですが、それ以外の点では実にほれ込みたくなる生き方なのです。
ドラマを見ていないとわかりにくいでしょうが、どうもそのドラマの昭和時代の人たちのことが頭から離れません。
悲しくてさびしくて、しかしどこかに共感する潔さがある。

9年前の節子との別れは、私の人生を変えましたが、その余波はいまもなお続いています。
たくさんの友人知人に支えられているとは言うものの、伴侶でなければ相談できないこともあります。
独りで生きることは、楽なこともありますが、疲れは癒されずに蓄積します。
「誤断」の「上司」は、妻や娘からもはじき出されてしまいます。
妻のため、家族のため、そして部下のため、社員のためと思っていたことがすべて「裏目」に出てしまったのです。
幸いに私は、はじき出されずにいますが、それは節子であればこそだったかもしれません。
しかし、節子はどう思っていたか。
もちろん、その「上司」と私は、価値観や行動は全く違います。
しかし、どこかに似たものを感ずるのはなぜでしょうか。

もしかしたら、という思いが頭の中で膨れ上がってきています。
私もどこかで、どこかで何かを間違えてしまったのかもしれません。
節子がいたら、節子と話したら、それがわかるかもしれません。
一人で考えていると、ますます頭が混乱してきます。

今年は、いろいろありすぎました。
誰に言えないことがあまりにも多い。
だれかに何も言わずに抱きしめてもらいたい気分です。
テレビを見て、最近涙がよく出るのは、そのせいかもしれません。
涙が出ると、心が少し癒されます。

今年は最後に少し頑張りすぎてしまったかもしれません。
これまでの自分の生き方を、少し恥じたからなのですが、残念ながら自分の能力がついてきていないことを思い知らされています。

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2015/12/28

■節子への挽歌3039:わたしの気餅が今年も届きました

節子
東尋坊の茂さんと川越さんが、今年もみんなでついたお餅を送ってきてくれました。
たぶん茂さんの命名でしょうが、「わたしの気餅」として毎年送って下さるのです。
お礼の電話をしたら、今日もまだお餅つきをやっていました。
お2人ともお元気そうでした。

お2人が始めた東尋坊での人命救助活動(自殺防止)も、もう11年8か月だそうです。
その間、540人を思いとどめさせてきています。
今年1年でも30人を超える人が、おふたりに出会って、人生を再出発されたそうです。
私は今年は何のお役にも立てなかったのですが、おふたりの声を聞くと元気がもらえます。

人生を生き直すために必要なものはなんなのかは、人によって違うだろうと思いますが、人のぬくもりをいつも感じられることは大きな支えです。
「わたしの気餅」には、その「ぬくもり」がこもっています。
近くにそれを感ずるだけで、人は生き続けられるのではないかと思います。
私は、それを茂さんたちから教えてもらいました。

茂さんたちも、私の人生に大きな影響を与えてくださいました。
もし、節子との最後の旅行で、東尋坊に寄らなかったならば、こうはなっていなかったかもしれません。
人の縁とは不思議なものです。
私ほど、縁に恵まれたものはいないかもしれません。
節子がいなくなっても、たくさんの縁が私を支えてくれていますので。

お餅は節子にもお供えし、周りの人にもお裾分けしました。
私は、大好きな豆餅をいただきました。
茂さんたちの仲間の気持ちがこもった気餅は、いつもおいしいです。

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2015/12/27

カフェサロン「教育を中核としたまちづくり」報告

今日は今年最後の湯島サロンでした。
テーマは、「教育を中核としたまちづくり」。
話題提供者は、学校と地域の融合教育研究会会長の宮崎さんです。
宮崎さんはいま、宮城県女川町で活動されています。
私が知り合ったのは、宮崎さんが習志野市の秋津小学校の校長時代で、今や全国に広がっている、学校と地域の融合教育研究会が始まった頃でした。
その頃も一度、湯島でお話してもらったことがありますが、公立の小学校でもこんなことができるのかと、それこそ私の常識が覆される活動でした。
今回は、その話も含めて、隠岐の海士町での話や女川での最近の活動などについてお話してもらいました。
宮崎さんの実践には、教育やまちづくりの本質を示唆するたくさんのヒントがあります。
それに触れたら、本気で学校や地域社会を変えていきたいという人なら、必ずや「うずうず」してしまうはずです。
学校と地域の融合教育研究会のホームページもよかったらぜひのぞいてみてください。。
http://yu-go-ken.net/

宮崎さんは、学校の役割が第3期を迎えているといいます。
子どもの持つ多様な価値を、まちづくりの担い手として生かす、地域とともにある学校です。
そして、そうした「学校力」をどう活用するかが、地域社会にとっての課題だと言います。
そして宮崎さんは、それをまさに今、女川で実践されているわけです。

宮崎さんのお話はもっと多くの人たちに聴いてほしいと思います。
それで来年の2月27日に、宮崎さんにお願いして、公開フォーラムを開催することを考えることにしました。
決まりましたらまた案内させてもらいますが、いわばその実行委員会的なものはすでに生まれています。
今回はそのコアメンバーも参加しました。
ご関心のある方は是非実行委員会に参加してください。
ご連絡いただければ、ご案内させてもらいます。

今年の湯島サロンはこれでおしまいです。
さまざまなサロンに参加してくださったみなさんに感謝いたします。
来年も引き続きよろしくお願いいたします。
Miyazaki20151226


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■節子への挽歌3038:今日は大掃除です

節子
寒いですが、いい天気です。
今日は自宅で大掃除です。
といっても、たぶん途中で挫折しますが、ともかく今年は「混乱の1年」でしたので、自宅での私のまわりも「ゴミ屋敷」状態なのです。
節子がいた時であれば、今年はわが家の大晦日は1週間遅らそうなどとも言えたのですが、いまはたとえ言ったところで娘からは無視されてしまいます。
時計をもたない私としては、カレンダーもなくしたいのですが、やはりパソコンまわりの書類の山積み状況や寝室の衣服の山積み状況を見ると、何とかしないといけないと思わないわけにはいきません。

最近は、衣服もあまり買っていないので、いつも同じものを着ています。
節子が知ったら注意されるでしょうが、ほぼ毎日、同じようなものを着ています。
在宅時も外出時も同じです。
私には、いろんなものを着こなすという文化がありません。
気にいると、そればかり着用し、気にいらなくなるともはやそれは着用しません。
ですから基本的に同じものを複数購入するわけですが、最近はあまり買っていないので、しかたなく数年前に買ったものをひっぱり出して、来ているわけです。
幸いに、気にいらなくなったものも処分せずに放置していたため、それができるわけですが。

こんなことを書くと、節子がいたら、みっともないから消去しろと言われるのですが、幸いに今は娘もこの挽歌をほとんど読まないので、この記事は残るでしょう。
事実をきちんと書くことは、決してみっともないことではありません。
みっともないのは嘘を書くことですが、これは節子にさえなかなかわかってもらえませんでした。
いずれにしろ、私の生活費には衣料費はほとんどありません。
そういえば、医療費もあんまりないです。
食費もないし、お酒も飲まないので嗜好品費もありません。
本当にお金を使わない生き方です。

昨年までは寄付とかクラウドファンディングとかに協力していましたが、今年から原則としてやめることにしました。
ささやかながら関わっている世界が広いためにきりがないというのも理由の一つですが、気分的になんとなくやめたくなったのです。
ですから今年はかなりの不義理もしてしまったかもしれません。

何を書いているかわからなくなりました。
要はやはり掃除がしたくなくて、パソコンに向かってしまったのかもしれません。
困ったものです。
さて大掃除を始めましょう。
いい天気ですので。

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2015/12/26

■節子への挽歌3037:今年もいろんな人が湯島に来てくれました

節子
今年最後のサロンでした。
たぶん節子も会ったことのある、宮崎稔さんに久しぶりに来てもらいました。

今年はいろんなサロンを開きました。
節子がいなくなってから、サロンの終わった後の後片付けは参加者の誰かが自然とやるようになってきました。
私は一度も頼んだことはないのですが、不思議なほど、誰かがやってくれるのです。
それも、意外な(と言うと失礼ですが)人がやってくれます。
今日はなんと太田篤さんが、「今日はおれがやるか」とつぶやきながら、みんなのコーヒーカップを洗ってくれました。
ご家族や職場の人が見たら、腰を抜かすのではないかと思ってしまいます。
某大企業の部長も、必ずと言っていいほど、カップを洗って、しかもきちんと片づけていってくれます。
若い男性の学生たちもそうなのには驚きます。
もちろん女性たちもそうですが、まあ不思議と言えば不思議です。
そんなわけで、私はほとんど後片付けをしなくてもいいのです。

湯島のこの空間には、少し心がけている2つのルールがあります。
他者を過剰に貶めないこと。
この場ではだれもが同じ立場で尊重されること。
この2つです。
ですから、大企業の社長であろうと新入社員であろうと、
大学教授であろうと大学1年生であろうと、
道を少し踏み外した人であろうと踏み外した人を質す人であろうと、
思想家であろうと専業主婦であろうと、
革命家であろうと保守本流であろうと、
みんな同じ立場で、基本は「さんづけ」で呼び合うのです。
長年そうやってきているせいでしょうか、ここに来るとみんなが「肩書のない個人」になってしまうのかもしれません。
そして、自発的に後片付けをしてくれるのでしょう。
いつぞやは、何と節子もよく知っている、あの80代の大先生の杉本泰治さんさえ、今日は私がやると言って、みんなが使ったコーヒーカップを洗っていました。
いやはや恐れ入った話です。

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■お金の呪縛から解放された生き方をしませんか

最近ニュースを見なくなりました。
嫌な報道が多すぎるせいなのですが、こうして私もまた、社会の劣化に荷担していくような気がしてきて、気が重いです。
それにしても、多くの国民がいくら異を唱えても、何も変わらないで進んでいく。
恐ろしい時代です。
もうひとつとても不快なのは、全てがお金で解決しようとする風潮です。
日韓関係の慰安婦問題も、沖縄の辺野古の問題も、原発再稼働の問題も、すべてお金で解決しようとしている安倍政権には、もはや打倒しかないと思いますが、残念ながらその術がわかりません。

水俣病に関わってきた石牟礼道子さんは、こう話していました。

患者さんたちは極限状態なのに、チッソヘは「お願いに行く」と言ってました。でも、会社側は金を要求しに来たという扱いですから。患者さんたちは東京の社長さんに会いたいと言い出しました。一番偉い人なら、自分たちの苦しみをわかってくれるはずだと。「大変でしたね、やっとわからせてもらいました」と言ってもらいたかったのです。そうすれば救われる。でも、それはなかったですね(『朝日新聞』2008年12月8日)。

いま、同じことが韓国の慰安婦問題で行われようとしているような気がします。

私は、すべてがお金で決せられる時代への予兆を感じて、27年前に会社を辞め、それとは違った生き方を指向して生きてきましたが、そこから抜けるのに10年近くかかりました。
いまは、何とかお金で考えるのではない生き方になっていますが、むしろそうした視点から考えると、社会の風潮はますます「お金頼み」になっているような気がします。
そして率先して、政府がそれをやっている。
しかも私の税金も含めて、国民から預かったお金を勝手に私物化して使っている。
軽減税率の議論では、選挙対策費のような使い方さえしています。

安倍首相と菅官房長官は、私には犯罪者にしか見えませんが、戦争での殺人が正義であるように、彼らの金権政治も犯罪にはならないのでしょう。
しかし、そうしたことが様々な分野に波及していることは間違いありません。
金銭に関する倫理感を疑うような事件が、毎日のように起きています。

そこから抜け出るには、お金の呪縛から解放された生き方を目指すしかありません。
来年からそうした生き方を考えるサロンを開始する予定です。

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2015/12/25

■塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅰ」を読みました

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅰ」が出版されました。
「ローマ人の物語」はずっと読ませてもらっていましたが、15巻が出版された後、当然、ギリシアに行くだろうと思っていたのですが、なぜか中世の方の行ってしまいました。
がっかりしていたのですが、ようやくギリシアです。
しかし3巻だと知って、すこしがっかりしました。
今年出版された1巻の主役はテミストクレス。
たぶん、後の2巻は、ペリクレスとアレキサンダーでしょう。
その後の時代のギリシアに関心のある私としては4巻ものにしてほしいものですが。

まあそれはそれとして、1巻目はとても面白く、ローマ人の物語の時のように一気に読んでしまいました。
いろいろと考えさせられることがありましたが、今日は印象に残った3つのことだけを羅列しておきます。

一つ目はちょっと長いですが、改革を起こす人の話です。

改革は、既得権階級のもつ欠陥に斬りこまないことには達成できない。斬りこむには、欠陥を知りつくす、と言うか肌で知っている者のほうが有利にきまっている。どこに、どう斬りこめば成功するかを、ローマ人の言葉を使えば、「食卓の話題」で自然に会得してきたからである。この種の「蓄積」は、いかに優秀な新興階級の出身者でも、一朝一夕には得られるたぐいのものではなかった。他には適当な教育機関が存在しなかった時代、それを教えこむのは家庭しかなかったのである。

2つ目は、アテネの民主主義の実態に関するものです。

直接民主政下のアテネで国の政策を決めていたのは、有権者総数の10%前後、ということになってしまう。

最後は、新しい文化の誕生に関することです。

時代を画するほどの文化文明は、異分子との接触による刺激がないところには生れない。自国内での温室栽培では、他民族にまで影響力をもつ画期的な文化も文明も生れないのである。

いずれもそれぞれ、現代のさまざまな問題を考える上での示唆に富んでいます。
それについては、それぞれに関して別途書いていければと思っています。
今日は予告編にとどまります。

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■節子への挽歌3036:いるだけで何かホッとする人

節子
今日は3回目の挽歌です。
これでようやく追いつきました。

節子もよく知っている田中さんが、ケーキとプレゼントを持って湯島に来てくれました。
彼女も最近いろいろと悩ましい問題を抱えていて、大変なのでしょうが、何か相談ごとがあると言って会いに来てくれたのです。
田中さんとの付き合いも、もう25年を超えるでしょうか。
最初に会った時は、モダンバレーにも熱中していた、ちょっと小生意気で挑発的な「美少女」でしたが、いまはさまざまな公職もこなしている才媛です。
公職をこなすようになると、往々にして「向こう側の人」になることが多いのですが、田中さんの場合は、ますます「こちら側の人」になっているような気がします。
だからこそ、本人は大変なのでしょうが。

佐藤さんが好きなものですよと言って渡されたプレゼントは、サンタバージョンのスヌーピーでした。
私が好きなのは、スヌーピーではなく、ライナスなのですが、まさかライナスの毛布がよかったなとわがままを言うわけにもいきません。
私にはとても悪い習癖があって、何をもらっても素直に喜ばずに、余計なひと言を言ってしまうので、最近娘から注意されているのです。
困ったものです。
それで、ライナスの名前を言いたくなったのを、あわてて封じました。
でもこのスヌーピーはなかなかいい感じなので、オフィスにしばらく飾って置こうと思います。

ケーキは東京会館のチョコレートケーキでした。
チョコレートケーキは苦手なのですが、食べてみると実に美味しいのです。
途中でまた余計なひと言を言ってしまいました。
実はチョコレートケーキは苦手なんだけど、これはとてもおいしい。
どう受け取られたでしょうか。
いやはや、人間の習癖はなかなか直らないものです。
しかし、大人になった美少女は、「おいしいでしょう、それなのに500円なのです」とにこやかに返してくれました。
私よりもずっと大人です。

実は田中さんは、1年前にとても大切な人を亡くしました。
大切な人を亡くすと、同じ状況にある人の気持ちがわかるものです。
もしかしたら、それで今日は私を元気づけに来てくれたのかもしれません。
しかし本来は、元気づけるのは私のはずですが、どうも女性を元気づけるのは不得手なのです。

ケーキを食べながら、思い出して、ところで今日は何をしに来たんだっけ?と、これまた失礼な質問をしてしまいました。
でもまあ、その質問は雑談の中で解決されていたのかもしれません。
田中さんは、佐藤さんは誰のためにも時間をとってくれるから、と言ってくれました。
そう言われるとうれしい気がします。
私自身、そう心がけているつもりだからです。
しかし、本当は逆であって、いろんな人が相談に来てくれるほど幸せなことはないのです。
おそらくあんまり役には立っていないでしょうが、役に立たない人との雑談こそが、もしかしたらとても大切なのかもしれません。
スヌーピーも話さないので役には立たないでしょうが、いるだけで何かホッとする。
私もそんな人になれればと思います。

節子は私にとって、そういう人でしたから。
私も少しはみんなの役に立っているとしたら、節子もきっと喜んでいるでしょう。

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■節子への挽歌3035:久しぶりに葬儀の日のことを思い出しました

節子
時間があるので、もう一つ書くことにします。
2日ほど挽歌を書けていませんので、挽回しなければいけません。

前の話に続くのですが、それに関連して、節子の葬儀の話をしてしまいました。
節子が望んでいたような葬儀にはなりませんでしたが、節子は喜んでくれたと思っています。
ただユリやバラで囲みたかった祭壇は、菊中心になってしまいましたし、私自身がいささか精神的に不安定で十分な対応ができませんでした。
葬儀には、やはりしっかりしたアドバイザーやサポーターが必要ではないかと考えたことを話したのです。
節子を見送った後は、私自身がそうした「葬儀カウンセラー」になりたいと思うほどでした。
私なら遺族の思いをしっかりと聞いて、その思いをできるだけ実現する葬儀のやり方が見つけられるだろうと思ったのです。
やはり葬儀は自分で体験しないと分からないことがあるような気がします。
ただ、人によって思いは全く違うでしょうから、私の考えがいいとは限りません。
私のように、自分の思いの強い人間は、カウンセラーには向いていないでしょう。
そう思ってその考えは捨てました。
しかし、葬儀に参加すると、ちょっと違うよなと思うことは少なくありません。

節子を見送ってから、葬儀というものへの感じ方が変わりました。
あれは別れの儀式ではなく、つながりを確認する儀式かもしれないと思うようになりました。
お通夜と告別式が、それぞれ役割分担しているのかもしれませんが、いまはその違いもあいまいになってしまっています。

久しぶりに節子の葬儀のことを思い出しました。
本当に不思議な2日間でした。
いまも夢だったのか現実だったのか、どうも記憶が定かではないのです。

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■節子への挽歌3034:「四苦」から「四喜」へ

節子
僧侶の友人が湯島に来ました。
用件はあったのですが、いつものように、それとはまったく別の話になりました。
一言で言えば、お寺ができることはたくさんあるのではないかという話です。

そこで、その人は「四苦」の話を出しました。
いうまでもなく、四苦とは「生老病死」、つまり生きる苦しみ、老いる苦しみ、病める苦しみ、死ぬ苦しみのことです。
それに対してお寺が関われることはたくさんあるのに、いまのお寺は死しか扱っていないのではないかということです。

私は、最近の思いを話しました。
そもそも「四苦」の発想を変える必要があるという話です。
節子がいなくなってから、私もそれなりにいろいろと考えて、最近行き着いた心境は、「四苦」ではなく「四喜」なのです。
つまり、生きる喜び、老いる喜び、病める喜び、死ぬ喜びです。
老いることは嘆き悲しむことではありません。
老いることを楽しむならば、それは喜びに繋がっていきます。
病いはどうでしょうか。
確かに節子は最後の1か月は、壮絶な闘病生活でした。
苦しかったかもしれませんが、病で得たものも少なくなかったでしょう。
事実、節子はそう話していたこともあります。
病いにかからないにこしたことはありませんが、かかった以上は嘆き悲しむよりも、日々を大切にすることで、生きる意味を問い直せることもあります。
むしろ病むことを楽しむくらいでないと、病いに負けてしまいます。

死は確かに避けたいでしょうが、生きた以上、避けられないことです。
恐れることも悲しむこともない。
避けられないことであるならば、しっかりと受け止めるしかありません。
死を正面から受け入れれば、死の恐怖から抜けられるでしょう。
死にさえ、歓びがあるというのが、私の最近の心境です。

そして、老いがあり、病いがあり、死があればこそ、生きることが楽しくなってくる。
そこにこそ、生きる喜びがあるのです。
発想を、四苦から四喜に変えれば、世界は全く変わってきます。
そんな話を私の体験から話させてもらったのです。

さらに言えば、生きるということは、老いることであり、病むことであり、死ぬことなのです。
人生から、老いや病いや死を取り除いたら、後に残るのはなんでしょうか。
老いや病いや死こそ、人生を豊かにしてくれるものだと考えたら、お寺の意味もまた変わってくるでしょう。
さて来年はお寺にも関わりたくなってきました。

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2015/12/24

■節子への挽歌3033:支え合う夫婦は過去のものなのか

節子
昨日は湯島で、私が話題提供するサロンを開きました。
サロンは25年以上やっていますが、私が話すサロンは2回目です。
「お金ではない支え合いを考える」というテーマで、私の生き方を絡めながら1時間ほど話をしました。
年末でクリスマス前の休日という日程を組んだので、参加者は少ないと思っていたのですが、20人ほどの人が集まってくれました。
その様子は時評編で書きました。

話しながら、私だけで話していると少し独りよがりになるなと感じました。
節子が私の話に絡んで、それはきれいごとでしょうとか、家族がどれほど迷惑したかなどと、話してくれたら、もっと私の思いが伝わったのではないかと思います。
今思い返せば、私の生き方が、節子にどう映じていたかを、節子に訪ねたことはありません。
たぶん節子は、大きくは満足していたと思いますが、小さなところでは異論がかなりあったかもしれません。
あから夫婦喧嘩が多かったのかもしれません。

このブログにしてもそうです。
時々ですが、娘が読んで、少し創作が入っているんじゃないかと言うのです。
私は、事実と違うことを書いているつもりは全くないのですが、どうもそう感ずることもあるようです。
たしかに、私が節子を美化している傾向は否定できません。
しかし、それはまあ、愛してしまった者には避けがたいことですし、何よりもこれは「挽歌」なので、少しくらいの飾り立ては許してもらえるでしょう。

ところで、昨日のサロンで、家族の話題がちょっと出ました。
その時にふと、「家族ってお金を介さない支え合いの基本」なのではないかという思いが浮かびました。
その時はあまり考えがまとまらなかったので、発言はしませんでしたが。

私たちは、正真正銘、お金とは無縁に支え合ってきました。
そもそも家族とは、そういうものだと私たちは考えていました。
47歳の時に会社を辞めるまでは、私が一応、大企業の正社員でしたので、経済的には恵まれていたと思いますので、あまり説得力はないのですが、お金がなくとも私たちは支え合って生きてきたと思います。
実際に、私たちが一番楽しかったのは、6畳一間での最初の1年でした。

人は困った時にこそ、支え合うものです。
経済的に貧しい社会は、支え合いが広がると言われます。
と言うか、昨日も話させてもらったのですが、生きるとは支え合うことだろうと思います。
しかし誰と支え合っていいかわからないので、まずは一緒に暮らす相手を探して結婚するわけです。
それが男女である必然性はないと思いますが、男女のほうがいろんな意味で好都合なところはあるように思います。
最近は経済的な収入が少ないから結婚できないといことをよく聞きますが、私の考えからすれば、だから結婚するのがいいと思うわけです。
支え合って生きていけば、お金の支出はかなり減るはずです。
でも今の時代はどうもそうなっていないようです。
もしかしたら、夫婦は支え合う関係ではなくなっているのかもしれません。
では夫婦とはいったい何なのか。
節子だったら何と答えるでしょうか。
そんなことはあなた一人で考えてよ、と言われそうです。
しかし、仮にそうであっても、問うことができる人がいることが大切なのでしょう。
やはり夫婦は支え合う関係なのだろうと思うのですが。
そのつもりがなければ、夫婦になる必要はないでしょうから。

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カフェサロン「お金だけでない支え合いを考える」の報告

昨日は湯島で、私が話すサロンをやりました。
たぶん私が最初に話す湯島サロンは、これまでの27年間のサロンの中では2回目です。
テーマは「お金だけでない支え合いを考える」です。
年末の、しかもクリスマス前の休日なので、参加者はあんまりないだろうと思っていたのですが、初参加の方も含めて20人ほどの集まりになりました。

いつもは、不十分とはいえ、私がホスト役なので、珈琲などを出したりするのですが、急遽、阿部さんや石井さんに珈琲をお願いしてしまいました。
急にお願いしたので、さぞかし迷惑だっただろうと思います。

1時間を、もしかしたらオーバーしてしまった私の話を、みんな聴いてくださいました。
何事も用意しすぎると退屈になるものです。
今回は、そうだったかもしれません。
パワーポイントをつくったのですが、あれも入れたいこれも入れたいとなんと66枚にもなってしまったのです。
困ったものです。

それでもその後の話し合いは、いろいろと面白かったです。
個人的に面白かったのは、家族の話になった時に、男性と女性との「家族」の捉え方の差が明確に出てきた時でした。
私の話で共感してもらったのは、「自分を生きる」ということでした。
66枚のパワーポイントの1枚に書かれていただけなのですが、私が一番言いたかったことの一つです。
みんながしっかりと「自分」を生きたら、社会は変わっていくと思っています。
いつものように、いつになっても終わる気配がなかったのですが、1時間ほどオーバーしたところで、終わらせてもらいました。

予想通り、具体的な「お金でない支え合い」の仕組みの提案があるのではないかと思って参加された方もいました。
それには、一見、何も応えていない話になっているのですが、実はきわめて具体的なメッセージを込めたつもりです。
私が取り組んでいる「コムケア活動」は、私にとっての平和活動ですが、湯島でのカフェサロンも、同じです。
それに、ロンドンのコーヒーハウスやドイツのバウハウスが新しい時代を切り開いたように、新しいものは常に「話し合い」から生まれると思っているのです。
もちろん話し合いの結果ではなく、話し合いが個人の思いに火をつけるという意味です。
今回、もう一つメッセージしたかったのは、「自分を生きる人たちのカフェサロンの大切さ」です。
これも何とかみなさんには伝わったようです。
カフェサロンをつづけたいという発言が複数の人からありました。

今回、1時間も時間をもらったので、カフェサロンのベースになるキーワード(キーコンセプト)はほぼすべて盛り込んでおきました。
来年は「お金でない支え合いパート2」で、「コモンズ空間としてのカフェサロン」させてもらえればと思っています。
そして、カフェサロンから、いくつかの仕組みが生まれればと思っています。
ちなみに、「コモンズ空間としてのカフェサロン」に関しては、以前ブログに少し書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/09/post-0bca.html
もしお時間があればお読みください。

ご多用のところ、参加してくださったみなさまに、感謝します。
10代の若者から80代の方まで、そして立場も実にさまざまなみなさんが参加してくださり、私にとってはとてもうれしいサロンになりました。
ちょっとだけですが、(家族の捉え方をめぐっての)異論のぶつかりもありましたし。

ありがとうございました。


Sasaeai1


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2015/12/23

■節子への挽歌3032:巡礼者の垂訓

節子
サンチアゴを歩いてきた鈴木さんから、たぶん、今年最後の手紙が届きました。
いつもと違って、はがきではなく、封書でした。
開いてみると、そこに1枚の文書が入っていました。
スペインの小さな教会でもらったのだそうです。
「巡礼者の垂訓」と題されて、10項目が挙げられています。
同封された鈴木さんの手紙に、こう書かれていました。

「巡礼者」を「(自分の)道を歩む者」にでも置き換えれば、万人にあてはまる内容ではないかと思います。

先日、鈴木さんが来た時に、「人生はまさに巡礼」と言うような話になったのを思い出しました。
この挽歌でも、前にそんなことを書いた気がしますが、そんなことを思いながら、「巡礼者の垂訓」を読んでみました。
先日会った時に鈴木さんが語っていたことに通ずることが書かれていました。
いずれも簡潔な言葉の中に、深い思いを感じます。

この「垂訓」の10か条は、巡礼をした人でなければ、深くは読み取れないかもしれないと思一方、逆に、こういう思いで、人生を歩めば、サンチアゴに行かなくても、その真意を読み取れるかもしれないという気にもなりました。
私自身、この数年、人生は巡礼のようなものと言う思いを強めてきていますが、その思いから、少しだけ理解できるものもありました。

たとえば、こう書かれています。

6.巡礼者は幸いである。全ての予想外の驚きに対して深い感謝の気持ちを表現する言葉を持たないとき。

節子がいなくなってから、「言葉」の意味が変わりました。
そして、「言葉」ではない「気持ち」の存在に気づきました。
深い思いは、「言葉」にはならないことも知りました。
「言葉」を使うことで、「言葉」に影響され、依存しがちになることも知りました。

次の文書も、いまではかなり理解できます。

5.巡礼者は幸いである。一歩戻って誰かを助けることの方が、わき目をふらずにただ前進することよりも、はるかに価値あることだということを見出すならば。

戻ることと進むことは、同じだと気づいたのも、節子を見送ってからです。
私が一時期、好んだ言葉は、「地球は丸いから、どちらに進んでも目的地に着く」ということです。
まあそれで、実際には目的地に定刻に着けなかったこともありますが。

まだ実現できていないこともありました。

4.巡礼者は幸いである。あなたのリュックが空っぽになり、心が静けさと生命で満たされるならば。

これはやはり巡礼を実際に体験しないとだめかもしれません。
私のリュックは、まだ荷物で山のようです。

鈴木さんには、いろんなことを気づかせてもらいました。
お互いに、心穏やかに年を越せることに感謝します。

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2015/12/22

■節子への挽歌3031:故人にとって一番の供養

節子
今日のこの挽歌へのアクセスは、もう1200を超えました。
すでに、いつもの3倍です。
理由は簡単です。
佐久間さんが、今日の「日経電子版」で、この挽歌のことを紹介してくれたのです。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO95093080U5A211C1000000/ 

佐久間さんは、この挽歌が3000回になった時に、ご自身のブログに取り上げてくれていました。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20151119/p2
過分なご紹介だったので、いささか気恥ずかしくて、その時にはこの挽歌には書きませんでしたが、今回は書かせてもらおうと思います。

本文を読んでいただければいいのですが、佐久間さんはこう書いてくださっています。

佐藤さんは07年に最愛の奥様である節子さんを亡くされてから、ほぼ毎日、3000日以上も彼岸の奥様へ向けてブログを書かれています。亡くなった方のことを思い出すことは、故人にとって一番の供養だと思います。毎日、仏壇に手をあわせて故人を思い出す人はたくさんいるでしょう。しかし、佐藤さんは毎日、仏壇の遺影に向けて「般若心経」を唱えた後で奥様宛のブログを書かれます。そのブログが3000回を迎えたのです。故人へのメッセージの量としては、おそらくギネスブック級ではないでしょうか?
さらに、こう続けます。
この世には、多くの「愛する人を亡くした人」たちがおられます。いまだに悲しみの淵の底に漂っておられる方も少なくありません。生きる気力を失って自死することさえ考える方もいるでしょう。なにしろ、日本人の自死の最大原因は「うつ」であり、その「うつ」になる最大の契機は「配偶者との死別」とされているのです。  どうか、そのような方々は佐藤修さんの「節子への挽歌」をお読み下さい。必ずや、闇に一条の光が射し込むはずです。そして、自らが人生を卒業する日を心穏やかに迎えられるのではないでしょうか。できれば、その方ご自身も亡き愛する人へ挽歌を書かれるとよいでしょう。  3000回を超えた佐藤さんの挽歌は、きっと多くの人々を救うはずです。わたしは、佐藤修さんと佐藤節子さんご夫妻の共同作業による、この前人未到の大いなる社会貢献に心からの敬意を表したいと思います。
いささか褒めすぎだとは思いますが、「佐藤修さんと佐藤節子さんご夫妻の共同作業」と言われるとうれしいものです。 それに、佐久間さんから「故人にとって一番の供養」と言われるのが、私にも一番うれしいことです。

最近ちょっとバタバタしていて、あんまりきちんと書けていなかったのですが、初めての人には「なんだ、これでも挽歌か!」と思われそうですが、まあそれもまた仕方がありません。
師走には、挽歌する心も少し上滑りしそうです。
節子には叱られそうですが。

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2015/12/21

■節子への挽歌3030:今年最後の野菜便

節子
たぶん今年最後の、敦賀からの「野菜便」が届きました。
敦賀の義姉夫婦も元気です。
今年はついに一度も会う機会がありませんでした。
節子がいたらもっと往来があるでしょうが、節子がいなくなってからは私も行くことはなくなってきました。
それに歳のせいもあって、お互いに遠出はだんだん億劫になってきます。
敦賀に行くのと彼岸に行くのと、どちらが遠いかだんだんわからなくなってくるのでしょう。

野菜便には、水仙とロウバイが入っていました。
早速、節子に供えさせてもらいました。
いまは節子の前は花でいっぱいです。

野菜便は、節子がまだ若いころは、毎年、節子のお母さんが送ってきてくれていました。
それがいつのころからか、義姉へと送り主が変わったのです。
そして、節子がいなくなった今も、それは続いているのです。

私はいまはできるだけ金銭に依存しない生き方を目指しています。
自分で実際にお金を使うことは、ほとんどありません。
節子がいるころは、何か必要なものがあれば節子が買ってきてくれました。
私がお金を使うのは、書籍代と交通費と珈琲代だけでした。
最近は珈琲は自分で淹れますし、書籍は図書館で借りています。
ですからお金は交通費くらいです。
おコメと野菜は送ってもらうので助かります。

もっともただ送ってもらっているだけではありません。
時々、お金をもらえる仕事をした時には、何かを代わりに送っています。
今月はあるところでお話をしたら、3万円ももらえましたので、干しイモなどを送りました。
あんまり引き合いませんが、実は宝くじを30枚も買ってしまったのと、久しぶりに1万円ほど本を買ってしまったのです。
困ったものです。
しかし、もし宝くじが当たれば、お世話になっている皆さんにお返しもできますし、仕事ももっとできるようになります。
まあ当たったほうがいいのかどうかは微妙なところですが。

年末の大掃除はまだ全くの手つかずです。
年を越すことにならなければいいのですが。

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■戦争と平和を考える蛇足:恐ろしい未来への不安

蛇足を追加します。

イラクヘの自衛隊派遣では日本の自衛隊員は一人も殺されることなく、またひとりも殺すことなく、任務を終えたといわれています。
たぶんそれは事実でしょう。

しかし、その後の報道によれば、イラクに派遣された自衛隊員延べ1万人のうち、30人前後が帰国後、自殺していると報道されています。
アメリカにおいても、ベトナム戦争での精神的後遺症の多さは話題にされ、それがアメリカ社会を変質させたとも考えられます。

こうしたことはもっとしっかりと認識されるべきでしょう。
人は戦場で肉体的に殺傷されるだけではないのです。
もしかしたら、昨今の日本社会は、ある意味での「戦場状況」なのかもしれません。

第二次世界大戦後、戦場で戦った元兵士たちは、帰還後多くを語らずに、最近になってようやく重い口を開きだした人もいます。

戦争と平和の問題は、一筋縄ではいきません。
先日放映された「新・映像の世紀」はヒトラーのナチスドイツが中心でした。
戦後解放された強制収容所の実情をドイツ人は見学させられました。
事実を突きつけられたドイツ人は「知らなかった」と言いました。
それに対して解放された人たちは、怒りを込めて叫んだそうです。
「あなたたちは知っていた」

私の未来を見ているような気がしました。
見学者になるか、解放された被収容者になるか。
できればそのいずれにもなりたくはありません。
しかし、どうもそれが許されないところまで来ているのかもしれません。

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2015/12/20

■節子への挽歌3029:宮澤さんはあったかな人でした

節子
例年、この時期になると、世田谷一家殺害事件がテレビで取り上げられます。
今年は事件後15年経過したため、連日のように取り上げられています。
被害者の宮澤さんは、私の知り合いでした。
その関係からか、事件のあった翌日の大晦日、自宅に電話がありました。
そして年が明けてから、警察の人たちが湯島にもやってきました。
一度は6人もやってきたので、いささか私も緊張してしまったほどです。
当時は、ある会を立ち上げていたのですが、宮澤さんもその仲間でした。
宮澤さんは、とてもあったかな人でした。

事件はすぐにでも解決すると思っていました。
しかし解決せず、その後も湯島に警察がやってきました。
私と宮澤さんとのメールのやりとりのコピーを見せられた時にはさすがにあまりいいい気はしませんでしたが、個別聴取ではなく、関係者を集めての話し合いをやったらいいのにと思いました。
もっとも私には、事件解決に役立つような情報は心当たりもなく、何の役にも立ちませんでした。

こんなことを言うのは不謹慎ですが、一家みんなが一緒だったことに、私はせめてもの救いを感じたものでした。
その気持ちは、節子を見送った時に、さらに強まりました。
しかし、考えてみたら、宮澤さんにも両親がいます。
テレビで宮澤さんのお母さんが話しているのを聞きながら、その不見識を恥じました。
頭では、そう思ってはいるのですが、しかし宮澤さん親子4人の写真を見るたびに、ちょっとだけうらやましい気持ちが浮かんでくることは否定できません。

伴侶がいなくなった者には、どこかゆがんだコンプレックスがあるのです。
毎年、年末にこの事件の報道に接すると、私はとても複雑な気持ちになってしまいます。
それにしても、あれからもう15年。
時間が経つのは、本当に早いです。

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2015/12/19

■節子への挽歌3028:生かされていればこそ、生命は大切にしなければいけません

節子
昨夜、わが家のすぐ近くで自動車事故がありました。
真夜中の2時頃です。
娘が騒いでいるので、私も目が覚めました。
どうも自動車が炎上し、消防車や救急車がたくさんやってきたのです。
高台のわが家から見えるところでの事故ですが、暗いのでよくわかりません。
しかし1時間以上騒ぎは続いていました。
救急車で運ばれていった人は大丈夫だったでしょうか。
その人の家族の人生は、一変したことでしょう。
まったくの準備時間もないままに。

最近、何事もなく人生を全うすることの幸運さがわかるようになりました。
私自身、あまり苦労なく、幸運の中で生きてきましたから、どうもそういうことへの思いが至らないのです。
節子との別れを体験した時には、自分ほどの不幸な人はいないとさえ思ったほどですが、いまから考えればとんでもない思い違いです。
愛する人との別れの時間を経験することができることさえ、幸せと言うべきかもしれません。

これも最近ですが、先の戦争やその後の世界の悲惨な姿を記録したドキュメンタリー番組を集中的に観ています。
このブログの時評編で、「戦争と平和」について書きだしたのですが、それが途中で書けなくなってしまったためです。
いろんな思いが頭にあふれだし、改めて以前から撮りためていた記録番組を観ているのですが、それこそ以前はとても観られずに逃げていた番組をしっかりと観るようにしています。
20世紀はなんとひどい時代だったことか。
そして今もなお、なんとひどい時代であることか。
私は本当にこの「ひどい時代」を生きていることを、認識していただろうか。
そう思うと、自分の生き方にたくさんの悔いが残ります。
そのひどい時代に、節子への挽歌を書き続けられる幸せを大事にしなければいけません。

それにしても、生命と言うのがこれほどまでに「もろく」「弱い」存在なのかを、この頃、痛感します。
節子がいるころは、そんなことなど考えもしませんでした。
娘が医師から見放されるようなこともありましたし、節子の病気も医師からはある意味で見放されていたのです。
娘は生き抜きましたし、節子も生き抜くと確信していました。
しかし、後から思えば、あまりにも思慮が浅かったのです。

生命は、生かされている。
だからこそ、大切にしなければいけない。
もっと早く気づいていれば、と、事あるたびに思います。

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■戦争と平和を考える10:手におえないテーマでした

このシリーズは論考がまとまらないまま、終わることにします。
支離滅裂な空虚なものになってきてしまいましたから。
最後に1枚の写真で終わることにいます。

1977

この写真は、1970年代の後半に私が撮影した写真です。
タイへの出張の帰路だったと思いますが、飛行機から見えたインドシナ半島、つまりベトナム国土の写真です。
もう40年ほど前のことなので、記憶が間違っているかもしれませんが、機内のアナウンスで、インドシナ半島が眼下に見えることを知り、目をやったら、そこに広大な褐色の国土が広がっていることに衝撃を受けたのです。
いわゆる「枯葉作戦」の後です。
枯葉作戦とは、ベトナム戦争中に行われたアメリカ軍による枯葉剤の空中散布です。
森林部や農村部に散布されたために、植物が絶滅し、国土が褐色の不毛の地となってしまったわけです。
写真があまり鮮明ではありませんが、茶色の部分が枯葉剤を空中散布されたため植物が枯れ果てた大地ではないかと思います。

ベトナム戦争から人類は大きなものを学んだだろうと思いました。
しかし、どうもそうではありませんでした。
戦争はその後もどんどん進化しています。
軍事力による戦争は、もしかしたら氷山の一角なのかもしれません。
目に見えるところでの派手な戦闘の影で、もっと邪悪な、生命と歴史を破壊する戦いが広がっている。
この写真を見ていると、そんなことを思い出します。

最近出版された塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅰ」は、古代ギリシア人が戦争ばかりしていたということから書き出されています。
だから、「もう一つの戦いの場」であるオリンピックを始めた、と。
そのギリシアはまた、痩せた土地の褐色の大地だったために、海外へと「侵略」を重ねていくわけです。
そしてそこに文化と文明を創りだす歴史が広がりだしました。

その見事な成果だった、パルミラ遺跡もISによって爆破されてしまいました。
歴史は方向を転じたのでしょうか。
青かった地球は、褐色になっていくのでしょうか。
唯一の対抗策は、沖縄の人たちのように、非暴力での抵抗かもしれません。
沖縄の人たちは、ゴザ暴動から多くのことを学んでいるのでしょう。
私も改めて沖縄のことを学び直そうと思っています。
ギリシアから学ぶことは、もうないような気がしだしています。

最後まで支離滅裂なシリーズになってしまいました。
しかしこの間、かなりさまざまなことを考えました。
そして、戦争とか平和とかに関しては、もうあまり考えたくなくなってきました。
戦争とか平和とかいう「言葉」で語ること自体に、すでに罠があるような気がしてきたからです。
まずは他者との関係を楽しいものにしていこうと思います。
よかったら湯島に遊びにお越しください。


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■戦争と平和を考える9:なぜ人は戦うのか

先週、湯島でお話をしてくださった東アジア共同体研究所の緒方さんから、いま、沖縄市で「戦後70年コザ暴動プロジェクト」が開催されていることを教えてもらいました。
http://kozaweb.jp/event/detail.html?&sp=true&id=2687
すっかりと忘れていましたが、そういえば、45年前の明日(1970年12月20日)は、沖縄のゴザでは米兵の起こした交通事故が発端となり、沖縄の住民の怒りが爆発した『コザ暴動』が起こった日です。
米軍関係の車両が、住民たちの手によって燃やされたのです。
緒方さんが送ってくださった「コザ「蜂起」45年」を読みながら、そこにはまだ、住民の怒りを爆発できる場所があったのだと思いました。
そして「戦う意味」もあったのです。
しかし、いまはどうか。

このシリーズは、安保法制騒動考を契機に書きだした第3部なのですが、次第に書けなくなってきています。
その理由は、戦争とはいったい何なのかが、どうも私自身よくわからなくなってきたからです。
たとえば、ナチスヒトラーはドイツ国民の支えによって生まれたという話と同じように、日本の戦前の軍国主義もまた、普通の日本人の支えによって戦争へと向かったはずです。
そして、その「恩恵」で、いまの私たちの生活がある。
そういう風に考えていくと、靖国神社に祀られたA級戦犯は果たして特別の存在なのだろうか、などという疑問まで出てきてしまい、思考が完全にストップしてしまってきたのです。
私がこれまで考えていたことが、根底から壊れだしているような気さえしています。
そのせいか、たぶん今回のシリーズは、内容が支離滅裂になっているでしょう。
私自身どうもすっきりしないのです。
少し前までは、私自身、何かわかった気がしていて、未来の展望さえも見えていたような気がしていましたが、いまは頭が混乱しています。
いったい人は何のために戦うのか。
もはや、これまでの意味での「戦う」ことは不要になってきているのではないか。
ミシェル・フーコーは、フランス革命時の断頭台での処刑儀式が不要になってきたことを説明してくれていますが、その延長上に、「殺戮しあう戦争」儀式もあるのではないか。
そんな気がしてきました。
それに、戦争がもし「利益争い」だとしたら、コストがかかりすぎる「殺し合い」は割が合うとは思えませんし、効果的でもありません。
「支配関係の維持」よりも、「権力の構造化」のほうが、利益をむさぼるには好都合のはずです。

そして、すでにそれに代わるものは生まれだしています。
たとえば、TPPは新しい形の戦争と言っていいでしょう。
ほかにもいろいろと考えられます。
いずれにしろ、軍事力による戦争は、冷戦時代を契機に、戦争の中心ではなくなりました。
そして、最近の新しい戦争は、始める前にすでに勝敗は決しているのが特徴です。
そもそも当事者はそれが戦争だとは思っていませんので、勝敗という意識さえ生まれません。
言い換えれば、孫子の兵法に言う「戦わない戦争」なのです。
権力による支配構造をつくることで、暴力に依存するよりもコストはかからないでしょう。
この第3部は、そういう結論に到達するはずでした。

しかし、まったく別の到達点も見えてきます。
戦争は殺戮しあうことにこそ意味があるという、おぞましい考えです。
いわゆるジェノサイド、あるいは優生思想につながる考えです。
いささか極端に聞こえるかもしれませんが、もはや「人間」など不要な時代になってきてしまっているのです。

シリアで展開されている「ISの戦争」には、それを感じます。
もちろん当事者の意図は、そこにはないでしょう。
しかし今は敵味方に関係ない「殺し合い」が展開されています。
それを進めているには、自らは「殺し合い」の外部にいる、無人機による空爆を指揮している人たちです。
そこでの「戦いの構図」がとても気になります。

このシリーズになんとかまとまりをつけようと、この数日毎日考えているのですが、書き出すとおかしな方向にいってしまい、途中でさじを投げだしていました。
今日は、中途半端なままですが、アップすることにしますが、つづけて、もうひとつだけ短いものを書いて、このシリーズから自らを解放したいと思います。
このシリーズを始めてしまったために、時評編が書けなくなってしまっています。
身のほどを知らねばいけません。

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2015/12/18

■節子への挽歌3027:同じものを感じてすごした歳月

節子
久しくお会いしていないMIさんから伴侶を亡くしたというお手紙が届きました。
昨年の9月にがんが発見され、今年の5月に永眠されたそうです。
55歳、あまりにも若く、そして突然のことだったことか。
そういえば、毎年とどく年賀状が今年は届いていませんでした。
闘病中だったのです。

MIさんのお手紙には次の文章がありました。

ふたりがともに黙っていても、 同じものを感じてすごした29年の歳月、 そして今もこれからも、傍らにいてくれる…。
何回も読み返させてもらいました。 「同じものを感じてすごした歳月」 その歳月が、生き続ける力を与えてくれるのかもしれません。

MIさんとは、保育の関係の活動をしていた時に、知り合いました。
私が保育関係の雑誌に連載させてもらっていた時に、彼女はサポートして下さっていたような気がします。
特に深い付き合いはなかったと思いますが、その仕事を辞めてから、いつか湯島に訪ねたいと言いながらも、なかなか来てもらう機会がありませんでした。
落ち着いたら、一度、湯島にも誘ってみましょう。

大事な人に先立たれた時の気持ちは、体験した人でないとわかりません。
もちろんわかったからなんだということでもありますが、同じ体験をした人とは、どこかでつながれるような気がするのです。

連日のように訃報の手紙が届きますが、MIさんからの訃報は、とても心が感じられてあったかな気持ちになれました。
MIさんにとって、来年はおだやかな年になりますように。

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■節子への挽歌3026:写真は、その当時を鮮烈に思い出させてくれます

節子
今日もまた半日は読書とテレビ三昧でした。
テレビは、もう大昔に見た「映像の世紀」の再放送の後半をまとめてみました。
ベトナム戦争の、実に生々しい映像を久しぶりに見ました。
そして、1960年代のアメリカの若者たちの姿も、久しぶりでした。
私にとっても、忘れてしまっていたことをいろいろと思い出させられました。

思い出したことがあり、その写真を探すために、未整理の写真を見つけ出しました。
節子は家族の写真はきちんと整理していましたが、私が一人で海外に出張した時の写真などは未整理のままです。
私は整理するということが不得手なため、写真は箱に無造作に入っていて、しかも混じり合っているため、わけがわかりません。
目的の写真は何とか見つけ出しましたが、未整理の写真箱には、節子の写真もたくさん入っていました。
節子と最初に奈良に行った時に、猿沢の池の階段で撮った写真が、なぜか混じっていました。
この写真のことはよく覚えています。
一昨年、娘と一緒に奈良に行った時に、ここで節子と写真を撮ったことがあると話していたほどです。

この日、私は一人で奈良に行く予定で、電車に乗りました。
そこで偶然、同じ会社の職場の節子に会ったのです。
節子は京都のおばさんのところに行く予定でした。
それで、おばさんのところはまた行けるだろうから、今日は奈良に行かないかと誘ったのです。
それが、私と節子が結婚することになる起点だったかもしれません。
その日は、暗くなるまで奈良を歩きました。
最初の出会いだったにもかかわらず、なぜか話が弾みすぎたようです。

探していた写真とは全く違うことを思い出してしまったのですが、人生には実にさまざまなことがあります。
ちなみに探していた写真のことは時評編で話題にするつもりですが、上空から撮ったベトナムの写真です。
映像の記録を見ながら、思い出したのは、枯葉作戦で国土が枯れ果てたベトナムのことだったのです。

写真を見ると昔のことが生々しく思い出されます。
節子がいなくなってから、写真は見ないようになっていますが、思い切ってこの正月休みに、写真の整理をしてみようかなどと思いだしています。
たぶん私がいなくなったら、遺された写真はすべて廃棄処分されるでしょうか。

たくさんの喜怒哀楽を、どさっと思い出してしまうかもしれません。

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2015/12/17

■節子への挽歌3025:伴侶が与えるパワー

節子
また挽歌が書けていません。
月曜から水曜にかけての3日間は、いろんな集まりがあって、バタバタしていました。
3日間で、50人近い人が湯島に来ました。
いろんな人に出会いました。
挽歌に書きたいようなこともいろいろありました。
しかし、最近は人に会うとなにやら脳疲労が起こり、パソコンに向かうのが嫌になるのです。
今日は、その反動で、1日在宅でした。
3日間の疲れのせいか、どうも気力が出ずに、午前中はテレビの録画番組を見て過ごしました。
いまBSで放映している、イギリスの連続テレビドラマ「刑事フォイル」です。
原題は「フォイルの戦争」ですが、第2次戦争下でのイギリスの話です。
あまり派手な内容はありませんし、おもしろいと言うほどのものではないのですが、心に響いてくるものがあるのです。
人の哀しさと言うか、家族の不思議さと言うか、生きることの残酷さと言うか、まあ毎回考えさせられることが多いのです。
静かな映画ですが、反戦思想が強く伝わってきます。

そのドラマのせいか、無性に本が読みたくなって、午後は読まずに積んでおいた「権力論」を読みました。
不思議なもので、本を読んでも頭に入っていかない時と信じがたいほどに頭に入っていくと気があります。
今日は、頭に入っていくときだったようで、かなり学術的なハードな本でしたが、一気に読み進められました。
基本的には、フランスの哲学者ミシェル・フーコーを中心においた「権力論」です。
この種の本を読むと、そこからまたさらに読みたくなる本がどっと広がります。
そんなわけで、明日も読書日にしました。

挽歌はしばらくまた書けないかもしれません。
いまの社会のありように、大きな違和感があるのが、本を読みたくなっている理由かもしれません。
書籍のなかの世界の方が、私には安堵できるようです。
現実の社会から逃げているわけですが、時に逃げないととてもでないですが、一人では生きていけないのです。
伴侶と言う存在の意味が、最近改めてわかってきたような気がします。
そのパワーがもらえないと、時に逃げたくなるのです。
明日もまた、現実から逃げた日になりそうです。

ちなみに、ドラマ「刑事フォイル」の主人公のフォイルは、数年前に妻に先立たれています。
だからなんだ、と言われそうですが。

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2015/12/16

カフェサロン「認知症予防問題を考える」報告

湯島で、認知症予防ゲームの普及に取り組んできた高林さんのサロンを開催しました。
高林さんは、まだ認知症は予防できないと言われていた頃からNPO法人認知症予防ネットを立ち上げ、京都を中心に実践活動に取り組んできた方です。
先日、コムケア関西の水野さんから投稿があったように、いま、コムケア関西でも、「みんなの認知症予防ゲーム」リーダー養成をやっていますが、東日本でも大きく広がってきています。
「みんなの認知症予防ゲーム」の根底にはしっかりとした理論があります。
最近さまざまな予防策や対応策がマスコミでも報道されていますが、そのほとんどの要素が組み込まれているのです。
今回は、長年その普及に取り組んできた高林さんを囲むサロンでした。
20人近いゲーム実践者のみなさんが集まりました。
みんなゲームを通して、「認知症」症状の改善(時には奇跡的な改善!)に出会った体験をお持ちの方ですので、もっともっと広げていきたいと考えているのです。
どうしたらもっと広げられるか、いろんな考えや知恵が出てきました。
みなさんの熱意に触れているうちに、来年はさらに広がるだろうなと確信しました。
定期的に実践者の交流会をやることも提案されました。
関西では、水野さんたちが主催している講座のほか、高林さんのNPO法人認知症予防ネットの講座がありますが、東日本でも様々な講座が開かれだしています。
「みんなの認知症予防ゲーム」に関心のある方はご連絡ください。

ちなみに、認知症予防ネットでは、「安心バッッジ」を製作し、その普及にも取り組んでいます。
関心のある方はNPO法人認知症予防ネットにお問い合わせください。

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2015/12/15

■コムケアサロン「宮城県女川からの報告:被災した子どもたちと地域コミュニティ」のお誘い

年末押し迫ってからの開催になりますが、ぜひ多くのみなさんに聴いてほしいと思い、12月26日にコムケアサロンを開催することにしました。
話題提供者は、宮城県女川町の教育委員会で、被災した子どもたちの学校教育に取り組んでいる宮崎稔さんです。
宮崎さんは、以前、千葉県の秋津小学校の校長をされていた時に、学校と地域の融合研究会を立ち上げられ、いまもその会長ですが、その後、隠岐の島の海士町に頼まれて子どもたちの教育に取り組むなど、全国を飛び回っての活動をされています。
東日本大震災の後は、女川町に転居し、活動されています。
落ち着かれたら一度お話をしてほしいとずっと思っていましたが、その活動ぶりを見ていると、なかなか声をかけにくかったのですが、今回思い切って相談して、お願いすることにしました。
お話しいただきたいことはたくさんあるのですが、今回は「被災した子供たちのお話」と「学びを通して地域を元気にしていくこと」を中心にお話をしていただこうと思います。
被災地がいま、どうなってきているかの現地報告もお聞きできると思います。

NPO活動の大きな意味は「実践者の市民性を高めること」というお話は、前回の日本NPO学会会長の田中さんのお話にも出てきましたが、その「市民性」とは何なのかということを考えるヒントもたぶん出てくると思います。

年末のご多用の時かと思いますが、ぜひ多くの人に参加していただければと思っています。
よろしくお願いいたします。

●日時:2015年12月26日(土曜日)午後1時半~3時半
●場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
●話題提供者:宮崎稔さん(学校と地域の融合研究会会長/宮城県女川町教育委員会)
●参加費:500円
●申込先:comcare@nifty.com

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■緊急カフェサロン「辺野古のたたかいはいま」報告

昨夜は、那覇在住の東アジア共同体研究所の緒方修さんに「辺野古のたたかいはいま」というテーマで、サロンを開いてもらいました。
急な呼びかけでしたが、参加者がわっと集まると思っていましたが、10人ほどの参加にとどまりました。
これ自体が、私には意外でした。
しかし20代の学生から70代のご夫妻という、幅広い参加者がありました。
いまの沖縄の問題は、まさに日本の「くにのかたち」を大きく変えていくものであり、しかも大きな時代の流れに逆行するものだと思っていますが、私たち「ヤマトンチュウ」の関心は低いのかもしれません。
これでは、ナチスファシズムに飲み込まれたのを後で悔やんだニーメラーの繰り返しになりかねません。

最初に映像「辺野古のたたかいはいま」を見せてもらいました。
今年の6月から8月の記録です。
いろいろと気づいたことや示唆もたくさんありました。
知らなかったこともたくさんお聞きできました。

私は2つのことがずっと気になっていました。
まず、沖縄の若者たち、とりわけ高校生や大学生たちはどう考えて、どう行動しているのだろうかということ。
それと、現地のアメリカ人たちはどう考え、どう行動しているのだろうかということです。
いずれもあまり動きがないそうです。
運動を起こす方が、「問題の立て方」に失敗しているのかもしれません。

緒方さんは、沖縄の新聞と「本土」の新聞の、問題の取り上げ方の違いについてもお話されました。
沖縄の人たちはほとんどが現地の新聞を読んでいますが、そこでは基地問題や民主主義の危機が大きく取り上げられています。
しかし、「本土」の新聞は時には1面に出ますが、取り扱いも取り上げ方もまったく違います。
そうした新聞を毎日読んでいることによって、意識は大きく変わってくることは間違いありません。

緒方さんは、キャンプ地にまだ放置されている遺骨の問題や大浦湾の生き物たちの話もしてくれました。
そして、「人権」や「環境」の問題をもっと表に出して、「世界」に訴えていくことの大切さも話してくれました。
しかし、それ以上にやはり、私たち日本人がもっと関心を持ち、自分の問題として考えることが大切だということで、話す場があれば、現場の状況を伝え、問題を知ってもらう活動に取り組まれているのです。
最年少参加者の大学生によれば、辺野古の話は周辺ではほとんど話題になっていないそうです。
学生に限らず、多くの人たちは、安保法制の問題と辺野古の問題を必ずしも結びつけていません。
そうした状況にこそ、問題の本質はあるのかもしれません。

ほかにもたくさんの話がありました。
機会があればまたぜひ緒方サロンを開きたいと思いますが、緒方さんが辺野古の話をするような場も、ぜひみなさんで作ってもらえればと思います。

なお、緒方さんたちの活動は次のサイトをお読みください。
http://eaci.or.jp/archives/
フェイスブックページもあります。
https://www.facebook.com/east.asian.community.institute

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2015/12/13

■節子への挽歌3024:「わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする」

節子
今朝、テレビで久しぶりに無着成恭さんのお話を聞きました。
最初に衝撃的な、しかし私にはきわめて納得できる発言がありました。
無着さんは、こう言ったのです。

わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする。

なぜそう思うのか、それは「こころの時代」を見てもらえばわかるのですが、要は、人間がいなくなってきたということでしょうか。
私の思いと全く同じです。
「人」はいても「人間」がいない。
無着さんの考えを、勝手に解釈するのは不正確の誹りを免れませんのでやめますが、前述の言葉をはっきりと聞かされると、此岸への執着がなくなりつつある私もドキッとしてしまいます。
そして、私の居場所がなくなってきているのも、そのせいかなどと身勝手に思ってしまうのです。

無着さんは子どもたちに作文や詩を書いてもらい、それをガリ版刷りしてみんなに配る活動をされました。
その時の子どもたちの書いたものがいくつか番組で紹介されました。
短い詩ですが、いずれも心に響きます。
こんなに良い時代が日本にはあったのだと思います。
もちろん、経済的には貧しく、「良い時代」などというのは身勝手なことでしょう。
貧しさに負けて死んでいったお母さんのことを詩に書いている子供もいました。
そんな時代を「良い時代」などというべきではないでしょう。
しかし、そういう思いを捨てられません。

節子と結婚したころは、私たちもとても貧しかったです。
両方とも親の反対を押し切っての結婚でしたから、弱音を吐かずに自分たちですべてやってきました。
最初はほとんど6畳一間の生活から始まりました。
しかし、いまにして思えば、その頃が一番「良い時代」だったかもしれません。
エアコンもない借間で、冬は凍えそうになって身を寄せ合っていました。
2年目は2LDKの社宅に移り、いまにして思えば、生活も次第にバブリーになっていきました。
それがある段階に達した時に、私はその生き方をやめました。
会社を辞めて収入は激減、ふたたび経済的には貧しい暮らしに戻りました。
それに比例して、生活は豊かになっていったように思います。
しかし、ようやくそうした「豊かな暮らし」の基盤ができた時に、節子は逝ってしまったのです。

「良い暮らし」とは何でしょうか。
私には、節子がいるだけで十分ですが、いないいまとなっては、いかなる暮らしも「良い」とは言えません。
無着成恭さんが幸せそうなのは、奥様と一緒だからだろうなと、ついつい無着さんの含蓄ある話よりも、そんなことを考えながら、テレビを見ていました。
そして、だからこそ、「わりと早く日本はほろびるんじゃないかという気がする」と笑顔で語れるのだろうなと思ったりしていました。

寒かったせいか、どうも今日は思考が後ろ向きです。
しかし、やはり日本が滅んでしまうのは避けたいので、明日からはまた、その流れに抗うように行きたいと思います。
明日は、湯島で「辺野古」をテーマにしたサロンをやる予定です。
節子がいたらと、つくづく思います。
節子がいたら辺野古にも行けたでしょうから。

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■節子への挽歌3023:「ゆっくりする」は「退屈にする」

節子
昨日は子ども関係のさまざまな活動をしている人たちの集まりに参加し、その後、みんなで食事に行きました。
参加するのはいささか躊躇したのですが、せっかくの機会なので参加させてもらいました。
やはりどこかに違和感が残りました。
私の居場所はますます小さくなってきているようです。
それに、女性たちの多い集まりは、どうも苦手です。

ビジネスの世界で活躍している人たちの集まりも違和感が高まっていますし、行政関係の人たちの集まりは別世界のようですし、NPO関係も大きな違和感があるのです。
私が安住できるところはどうもなくなりつつある。
こうやって人は彼岸に旅立つのでしょうか。
此岸への未練や執着は不思議なほどになくなってきています。

時評編でドラッカーのことを少し書きました。
彼は、自らの位置と役割がない社会は、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない、と書いています。
社会の中に、自らの居場所があることが、生きるということなのかもしれません。
それがどうも見つからない。
だから、どこにいっても、居ずらいのかもしれません。

今日は自宅でゆっくりしました。
とはいうものの、最近は「ゆっくりする」ということの意味がよくわからなくなりました。
節子がいないと、「ゆっくりする」は「退屈にする」と同義語かもしれません。
独りで時間を楽しむことが、どうも最近不得手になってしまっています。
他者と一緒でも退屈だし、一人でも退屈。
どうしようもありません。
でも、たとえ窮屈であっても、やはり誰かと一緒の方がいいのかもしれません。
今日、一人で過ごしていて、そんな気がしてきました。
居場所は与えられるものではなく、創りだすものかもしれません。
そのエネルギーが、たぶん枯渇しつつあるのでしょう。

今日も寒い1日でした。

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■戦争と平和を考える8:見えない戦争

尖閣諸島をめぐって、中国が日本の領域を侵犯してくるのではないかという不安が、軍事力による抑止力を支持する人たちにはあるようです。
しかし、そういう「目に見える戦争」は本当に起こるのでしょうか。
もちろん「起こらない」ということはできません。
しかし、起こるとしたら、それは前にも書いたように「論理的」にではなく、「事故的」「偶発的」「判断ミス的」に起こるのではないかと思います。
そこでは「軍事力による抑止力」は、ほとんど意味をもたないでしょう。

防衛庁で防衛研究所所長を務め、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)も歴任した柳澤協二さんは、岩波ブックレットの「民主主義をあきらめない」の中でこう言っています。

グローバリゼーションの時代に対応するキーワードは、抑止力ではなくて、むしろ「戦争って駄目だよね」という以上に、「戦争したら損だよね」という認識なのではないかと思うんです。

軍事力による「戦争」は、政治手段としての役割は終えてしまったのです。
柳澤さんは、「少なくとも、このグローバリゼーションの時代において、「抑止」はもうキーワードではありません」と明言しています。

しかし、依然として、「軍事力による戦争の効用」にしがみつく政治家は少なくありません。
それは、それに共感する国民がいるからだろうと思います。
ドイツ国民はナチスを育てましたが、いまの日本国民は何を育てようとしているのでしょうか。
とても不安があります。

ところで、いまの日本は「戦争」とは無縁なのか。
必ずしもそうとは言えないように思います。
しかし、その「戦争」は「見えない戦争」、あるいはガルトゥングが言う「構造的暴力による戦争」です。

日本でも無差別殺人事件やテロまがいの事件はすでに起こっています。
つまり「テロ犯罪が起こりうる状況」にあると言っていいでしょう。
そうした中ではISの呼びかけに共振した動きが出ないとは限りません。
防備体制が弱い、いわゆる「ソフトターゲット」での「テロ」が発生してもおかしくない状況に、日本はあるということです。
それがどこかで「戦争」につながっていくことがないとは言えません。
緊急事態宣言が行われ、一気に戦争に向かいだすこともないとは言えません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/10-7d54.html

国家の安全保障にとっても、こうした動きを「抑止」することこそ、いま必要なことではないかと思います。
そのために何が必要かは明確です。
いまの政治はそれと正反対の方向を向いているように思えてなりません。

戦争と犯罪とは別のものですが、グローバル化の中ではそれが奇妙につながり始めています。
そこに問題の悩ましさと本質があります。
そして、戦争そのものがどんどんと見えなくなってきている。
自由貿易体制の推進も、もしかしたら「もう一つの戦争」かもしれません。
私たちの社会の秩序が壊れるとしたら、それはどこからなのでしょうか。

アイルランド人のレネ・ダイグナンさんは自殺者の多い日本の社会に衝撃を受けて、「自殺者1万人を救う戦い」という映画を制作しました。
私たちが、危機を感ずるべきは「仮想敵国」などではなく、いまの社会のあり方、言い換えれば私たち一人ひとりの生き方ではないのか。
レネさんは、そう語っているように思います。

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2015/12/11

■戦争と平和を考える7:自らの居場所が見つからない人たち

一時、難民を受け入れる方向で動いていた世界が、一転して、難民拒否の動きに転じました。
次期米大統領選に共和党から立候補を目指しているドナルド・トランプ氏の「イスラム教徒の入国禁止」発言。あるいは、フランスの地方選において、移民批判を重ねる国民戦線の大躍進など、時代の流れは一転して、移民拒否です。
どうしてこうなってしまっているのでしょうか。

ドラッカーは、第二次世界大戦のさなかに書いた「産業人の未来」の中でこう書いています。

大衆にとって社会は、そこに自らの位置と役割がなければ、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない。 さらに、そこにおける権力に正統性がなければ、専制、専横以外の何ものでもない。 そのとき彼らは不合理の魔力に従う。 信条をもたない大衆は、既存の社会秩序以外のものであれば何でも飲み込む。 いい換えるならば、彼ら大衆は、権力のための権力をねらう専制者や煽動家の餌食となる。 秩序をもたらしうるのは、彼らを奴隷としすべてを否定したときだけである。 機能する社会に組み込むことができなければ、彼らに秩序をもたらす方途はない。

実は先日、湯島で開催した「ドラッカーとナチスと市民性」というテーマのサロンの後の、メーリングリストでのやり取りで、私が思い出して引用した文章です。
そこでも書いたのですが、これはまさに現代において示唆に富むメッセージです。
ISがなぜ生まれたか、
そしてどうしたらIS問題を解決できるか、
そのすべてが、この文章で予言されているように思います。
そしてトランプ発言やマリーヌ・ルペン国民戦線党首の発言は、自らの位置と役割を見つけ出せない人たちをたくさん生み出していくことにつながるでしょう。

IS問題は対処療法的に解決しようとすればするほど、事態は深く広がりかねません。
そもそも「イスラム問題」とか「戦争」という切り口で捉えることに間違いがあるでしょう。
「戦争」ではなく「犯罪」ですから、軍隊により空爆などでは対処できるはずがないのです。

戦争は合法的なものでしたが、そういう意味での戦争は、もう起こることはないと思います。
ですから戦争を前提にした軍隊は、これからおそらくなくなっていくでしょう。
しかしそれでは困る人たちがいる。
だからこそテロ犯罪を戦争と意図的に混同させて、抑止力だとか軍事的集団自衛権とかを問題にしようとしているのではないかと思います。

合法的な戦争はもはやすでに「割に合わない戦略」になっているのです。
その代わりに、「見えない戦争」が広がりつつあります。
そして、その見えない戦争こそが、テロという犯罪を引き起こしているのではないかと思います。
次回は「見えない戦争」について考えてみようと思います。

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■節子への挽歌3022:自動車のない1週間

節子
この1週間、わが家には自動車がありません。
まあさほどの不便はありません。
むしろ気分的にはいい感じです。

なぜ自動車がないかと言えば、先日、スーパーの駐車場の入り口で自損事故にあったのです。
スーパーが車止めを片づけていなかったのが理由ですが、まあそれを責めても仕方がないので、自分で修理することにしました。
運転していたのは私ではなく娘ですが、事故の発生は同乗していた私の責任かもしれません。
私が注意していたら、娘に警告できたはずでした。
節約のため代車を借りなかったので、しばらく自動車なしの生活です。
どういう変化が起こるか楽しみです。

もっとも私は、今は運転はしていません。
昨年、免許更新時に、実習が必要だったので免許を返却してしまいました。
実際、もう10年以上、運転はしていないのです。
私は運転の適性がかなり欠落しているようで、家族からも運転を止められているうちに完全なペーパードライバーになってしまっていたのです。

私が自動車の運転免許を取ったのは、48歳の頃でした。
わが家では私が最後に免許を取ったのです。
免許を取ったころはそれなりに運転していました。
しかし、ブレーキとアクセルを間違えて、危うく事故を起こしかけたりしました。
運転免許をとった直後、節子を乗せて、都心を突っ切って大森の病院までお見舞いに行ったことがありますが、よくまあ節子は不安も持たずに同乗したものです。
事故に合わなかったのは奇跡としか言いようがありません。
しかし、以来、節子はいつも自分で運転していました。
よほど私の運転は危なかったのでしょう。
それをいいことに、私は運転をしなくなっていきました。
そして最後に自宅の門にぶつけてしまい、それ以来、家族から運転をしないようにと言われだしたのです。
たしかに私には適性はありません。
慎重さに欠けるのです。
困ったものです。

実は私は学生のころから、自家用車には否定的でした。
一応、自称エコロジストでしたので、自動車がどんどん普及してくることに異論があったのです。
いまも基本的には同じで、一人ではよほどでないとタクシーには乗りません。
昔ある会社に講演に行って、帰りにタクシー券をもらったことがありますが、それを使わずに電車で帰宅し、タクシー券は返送しました。
それが嫌味だったようで、そこからは2度と仕事は来ませんでした。
それでそれ以来、タクシーで送ってくれる会社の好意は素直に受けるようにしました。
ところが、それに慣れると自家用車にもどんどん乗るようになり、駅に行くのでさえ、節子に送り迎えを頼むようになってしまいました。
家族からは主義に反するのではないかと言われましたが、忙しい時などは、忙しさまで口実にしていたのです。
困ったものです。
ちなみに今はそんなことはありません。
ですから、いっそこのまま自動車のない生活でもいいと私は思っていますが、娘はきっと一番困るのはお父さんだよと言っています。

さてどうなるでしょうか。
少し楽しみでもあります。

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■支え合いカフェサロン「お金だけではない支え合い社会を考える」のお誘い

今年もさまざまなカフェサロンにご参加いただき、ありがとうございました。
今年最後のカフェサロンは、私自身が話をさせてもらうサロンにさせてもらうことにしました。
年末の押し迫った日程なのですが、もしお時間が許せばご参加ください。

実は先日、共済研究会というところで、「お金だけではない支え合い社会を考える」というテーマでお話させてもらったのですが、そこで湯島でのサロンの話なども少しだけさせてもらいました。その後、この話こそ、湯島でのカフェサロンで話させてもらって、みなさんの批判を受けて、来年は「支え合いの仕組み」づくりに向けて、少し動き出そうと思ったのです。
それで、カフェサロンにしては、ちょっと重装備なのですが、共済研究会で話させてもらったパワーポイントを使って、私の生き方の基本にある時代の捉え方や考え方を少し話させてもらい、来年はこんなことを考えたいと呼びかけられればと思っています。
カフェサロンを続けている意味も、できれば少し話させてもらえればと思っていますが、それはまた年が明けてからのパート2にさせてもらうかもしれません。

年末の気忙しい時の開催ですが、ご参加いただけると嬉しいです。
まだお会いしたことのない方も含めて、どなたでも歓迎です。
珈琲を飲みに来るくらいの、気楽な気分でご参加ください。
お会いできるのを楽しみンしています。

○日時:2015年12月23日(水曜日・祝日)午後1時半~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「お金だけではない支え合い社会を考える」
○問題提起者:佐藤修
○スタイル:1時間ほど佐藤が話した後、自由な話し合い
○会費:500円
○申込・問合せ先:qzy00757@nifty.com


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2015/12/10

■節子への挽歌3021:花かご会のカレンダー

節子
花かご会の山田さんが、恒例の我孫子駅前花壇のカレンダーを持ってきてくれました。
早速、仏壇に供えさせてもらいました。
昨日、オフィスに行く時に、駅前でみんなで作業をしていたので、声をかけようと思いながら、急いでいたためやめてしまったのですが、昨日が今年最後の作業日だったそうです。
今年は結局、一度も差し入れができませんでした。
差し入れ用に買ったチョコレートもうまく出会わせずに、私が食べてしまいました。
困ったものです。

花かご会も女声合唱団「道」も、節子がいなければ接点のなかった人たちです。
節子のおかげで、私の世界も豊かになりました。
節子の世界も、私のおかげで広くなっていたはずです。
しかし、節子がいなくなってから、どうしても私の世界は狭くなりがちです。
異なる世界で育ってきた2人が、一つの生活単位を創りだすという仕組みは、とてもいい仕組みだと思います。

それにしても、もう9年もたつのに、花かご会のみなさんはまだ節子のことを気にしてくださっています。
感謝しなければいけません。

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2015/12/09

■節子への挽歌3020:声をかけてくれた人が思い出せません

節子
オフィスに向かう実盛坂の下で、歩いてきた人に「こんにちわ」と声をかけられました。
突然のことで、すぐに返事を返しましたが、その方はそのまま行き過ぎていきました。
50代の男性で、マスクをしていたので顔はわからなかったのですが、私にはまったく心当たりがありません。
まさか、追いかけていって、「どなたでしょうか?」とも訊けずに、オフィスに着いてからもしばらく考え込んでしました。

湯島には27年通っていますが、最近はあまり近辺とは付き合いもなく、知っている人がいるとは思えません。
姿かたちから、あの人かなと思いつく人はいるのですが、まさか湯島で会うはずもない人ですし、もし会ったとしても、「こんにちは」で通り過ぎることもないでしょう。
考え出すとますます気になります。
ちなみに、その時には道を歩いていたのは私だけですし、私に向かって声をかけたのは間違いありません。

実盛坂は、とても急な階段です。
この坂の界隈ではこれまでも不思議な体験をしたことがあります。
前にこの挽歌にも書いた気がしますが、「ひとりの媼とふたりの童」としか言いいようのない3人に会ったのです。
いまから思えば、三川内焼の絵柄のような3人でした。
3人を見かけた瞬間、不思議な気持ちにおそわれました。
それだけならたいしたことではないのですが、その同じ3人に、それから少しして、確か大阪で会ったのです。
いや、これ自体が記憶違いかもしれませんが、いずれにしろ、同じ3人に、全く違ったところで会っているのです。
それもいずれも、3人の服装はもちろん、その様子も同じでした。
確かめればよかったと思うのですが、そうできなかった何かがあったのです。
私の幻想か幻覚かも知れませんが、その頃は私自身、彼岸と此岸を行きかいながら生きていた時期でもありました。

そんなことをまた思い出してしまいました。
それにしても、今日の「こんにちはの人」は誰だったのでしょうか。
湯島に知り合いなどほとんどいないのですが。

湯島も、節子がいたころとはかなり変わってしまいました。
名刺やら資料などを印刷してくれていた印刷屋さんの夫婦は、節子がいたころにもう、高崎に転居しました。
とてもいいご夫婦で、節子ともささやかな付き合いがあったのでしょう。
転居後、節子に何かが送られてきていました。
近くのコンビニのオーナーの奥様は、もしかしたら経営難でオーナーを別の人に渡したかもしれません。
節子がいたころは、いつも節子はそこで買い物をしていました。
以前は時々、道で会うと話しかけてきてくれましたが、コンビニが改装された後、見かけなくなりました。
それで私もそのコンビニを使わないようになりました。
同じビルの近隣の人もほとんど変わってしまいました。
最近は、食事に行くことも少なくなりましたし、節子がいたころによく行っていたお店は、みんな代変わりしてしまいました。

湯島も変わってきているのです。
部屋からきれいな夕日が見えていたのですが、それを遮るような高層ビルが建ってしまいました。
節子がいたら、そろそろこのオフィスはやめようかという気になっていたかもしれません。
しかし、節子がいなくなったので、逆にここから去りがたくなってしまいました。
ここには節子がまだいるような気がするからです。
今朝会った、「こんにちわの人」も節子の知り合いかもしれません。
もう少し湯島には通うつもりです。

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2015/12/08

■節子への挽歌3019:明るいイマジンな生き方

節子
今日はジョン・レノンの命日です。
一昨日の平和コンサートでも、布佐中学校の吹奏楽部がイマジンを演奏してくれましたし、打ち上げでは司会をやった若桑さんがすばらしい歌詞で、イマジンを弾き語ってくれました。
そのせいか、この数日、頭の中にイマジンが住んでいるような気分です。

節子と最初に会った1964年に、日本ではビートルズのレコードが発売され、その年にビートルズは来日しました。
あの頃は、いまとは全く違った時代だったような気がします。
未来が輝いていましたし、若さがみなぎっていました。
私たちが若かっただけではなく、時代が若かったのです。
その幸せな時代を私たちは生きられました。
あの時代であればこそ、節子との生き方が成り立ったのかもしれません。
私たちは、時代に支えられて生きてきたような気がします。
生まれる時代が違えば、きっとこんな生き方はできなかったでしょう。

私も節子も、親の意向に抗いながら、わがままに、そして迷惑をかけながら、自分の思い通りの生き方をしてきたのです。
ある意味では2人とも、「親不孝」な生き方だったかもしれません。
とりわけ私は、自分本位のわがままさをまき散らしてきたのかもしれません。
今になって、娘からそれを指摘されると、反論が全くできません。
常識のない親を持つと子どもは大変なのかもしれません。

私たちが「親不孝」だったことのためか、私たちの子どもたちもまた「親不孝」な生き方をしています。
しかし、娘たちから言わせると、おそらく私たちは「親不孝」であると同時に、「子不幸」な生き方でもあったのです。
最近それがよくわかります。
私たちは、子どもが生まれてからも、親と同居してからも、いつもいつも「夫婦」中心で生きていたようです。
相手ばかりを見ていたのかもしれません。
自分が親になると、そのことがよくわかります。
その因果応報は素直に受けなければいけません。

ジョン・レノンは若くして凶弾に倒れました。
しかし、いまもなお、ジョン・レノンは生きている。
谷川俊太郎の詩ではありませんが、「だれもなくならない」のです。

イマジンのメッセージは、しかし、あの頃といまとでは大きく違うような気もします。
あの頃は、明るい世界が伝わってきましたが、いまは必ずしもそうではない。
明るいイマジンな生き方ができたことに感謝しなければいけません。
一緒に生きてくれた節子にも。
そして娘たちにも。

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■戦争と平和を考える6:思いやりの心は、必ず連鎖する

なかなか書く時間が取れないのですが、今日もまた横道です。
横道ですが、とても大切なことを書かせてもらいます。

昨日、地元の我孫子市に、広島から「サダコ鶴」が届きました。
サダコ鶴はご存知の方も少なくないと思いますが、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなった佐々木禎子さんが、死の直前まで追っていた折り鶴です。
禎子さんの実兄の佐々木雅弘さんとその息子さんの祐滋さんは、サダコ鶴を通して、世界に平和の思いを伝えていこうと活動しています。
祐滋さんはシンガーソングライターで、ご自身が作曲した「INORI」の弾き語りを世界で行っています。
サダコ鶴の寄贈式に、佐々木さん家族が来ることを知って、祐滋さんに地元のミュージシャンとのコラボコンサートをお願いしました。
フェイスブックやホームページで簡単に紹介しましたが、素晴らしいコンサートになりました。
https://www.facebook.com/Zatttsu/videos/922648964449411/?theater
雅弘さんは地元の中学生たちと一緒に、朗読劇「禎子物語」を演じてくださいました。

佐々木さん親子の思いは実に深いのです。
最近は新聞やテレビでも紹介されているので、雅弘さんのことをご存知の方も多いと思いますが、雅弘さんの2つの言葉を紹介させてもらうことにします。

ひとつは、雅弘さんがウィーンの中央図書館ホールで「禎子物語」を講演した時に、地元の中学生の「原爆はどこの国が落としたのですか」という質問への答えです。

あのときから長い時間が経過しました。 その間に神様は、お互いの心を洗い流してくださいました。 だから原爆を落とした国の名前は忘れました。

もうひとつは、ニューヨークの高校での生徒とのやりとりです。
ちょっと長いですが、源和子さんが書いた「奇跡はつばさに乗って」(講談社)から引用させてもらいます。

雅弘さんが朗読した後、白人の女子生徒が、「私たちの国アメリカを恨んでいない、と佐々木さんはおっしゃいましたが、本当なんですか。私には信じられない。アメリカが落とした原爆で佐々木さんは被爆し、あなたの妹さんが亡くなったんですよ。私だったら、愛する家族をそんなやり方で奪う国は絶対に赦せない」と発言したのです。 この生徒は、当時のトルーマン政権に対して、怒りをあらわにしていたそうです。 雅弘さんは、その女子生徒にほほえみながら、静かに語りかけたそうです。

「被爆者の私がアメリカに『恨み』を持たなかったのは、妹、サダコのおかげです。白血病で苦しんでいても、まわりをいつも思いやっていた妹の姿からそれを教わりました。原爆投下は悲劇です。日本にとっても、あなた方の国、アメリカにとっても。あなたのお気持ちはよくわかります。でも、この世の中に自分と違う意見を持つ人たちや国のリーダーがいるのは当然で、しかたのないことです」。
「でも大切なのは、その『違い』を恨むのではなく、ひとつでもいいから、おたがいの『共通点』を見つけることじゃないでしょうか。そして、その共通点を見つけられたら、そこから理解しあえるように努めてみることではないでしょうか。相手だって自分と同じ人の子。必ず共通点はあるはずです」。
「思いやりは、みなさんのまわりから始められます。あなたはその身近な人たちにとって『優しい存在』ですか。まずはあなたが身近な人たちにとって、思いやりのある存在になってください。そうすれば、争いはこの世から消えてなくなるでしょう」。
小さな思いやりの心は、必ず連鎖する。それは大きなうねりとなって、ときには想像を絶するパワーを引き起こす。

最近のISの問題を考える出発点も、ここにあるような気がします。
いまの世界は、どこかで間違っているように思います。

ちなみに、テレビでも大きく報道されていましたが、先月、雅弘さん親子はトルーマン元大統領に会ってきました。
サダコ鶴は、ハワイのパール・ハーバーにも贈られています。
一昨日、祐滋さんのご両親にはじめてお目にかかりました。
握手してきたおふたりの手のあたたかさから、その思いの深さが伝わってきました。

戦争をなくすのは、政治家でも軍人でもなく、私たち生活者なのです。
改めてそう思いました。

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■節子への挽歌3018:お金がないほうが豊かになれるかもしれない

節子
昨日は勢いに乗って3編も書いてしまいましたが、今日も2編書いて追いつこうと思います。

我孫子でのコンサートの前日、共済研究会で話をさせてもらいました。
テーマは「お金だけでない支え合い(社会)のあり方を考える」です。
今年3月に行われた共済研究会の公開フォーラムで、発表させてもらった「現代における『支え合い』の役割と課題」の続編です。
幹事役の長谷川さんから、佐藤さんの活動を話すのもいいかもしれないと言われていたので、半分は私の活動の話をしました。
かつて取り組んで、頓挫してしまっていたコモンズ通貨「ジョンギ」の話もしました。
そしてその真ん中に、お金に依存しない生き方があるのではないかという「新しい経済」の話を少し入れました。

話し終わった後、共済問題の研究者でもあり、日本の無尽講や結についても造詣の深い相馬さんから、コモンズ通貨はなぜ必要なのかと質問されました。
うれしい質問でしたが、あんまり頭がうまく反応せずに、中途半端な回答をしてしましました。
最近どうも思考したことを上手く話せなくなってきています。
明らかに脳の老化だろうと思います。

まあそれはそれとして、
共済研究会の代表の本間さんから、意外な質問をもらいました。
佐藤さんはいろんな活動をしているが、どうやって食べているのですか?
私の活動が収入よりも支出になっていることを心配しての質問です。
この質問にも、うまく答えられませんでした。
まずは「毎月の年金の15万円で生活はできています」「活動はみんなのお布施のおかげでできています」という的外れの答えをしてしまいました。
参加された方は、たぶん納得はされなかったでしょう。
しかし、私自身、どうして生活できているのかはよくわかりません。
まあ慎ましやかに生きていれば、お金などはそう必要はないのです。

話したお礼として、この研究会からもお布施をもらいました。
事務局の高月さんに、これでまた仕事ができるとお礼を言いました。
うれしいことですが、そのお金で実は宝くじを買ってしまいました。
もし宝くじが当たったら、コムケア基金をつくろうと思います。
1億円の基金ができれば、もっと思いのままに仕事ができるようになるでしょう。
いや、仕事をしなくなるかもしれません。
お金は本当に恐ろしいほどの力を持っています。
宝くじが当たったほうがいいのかどうかは微妙なところです。
しかし、節子が残してくれたお金を私のミスで失ってしまい、どうもその罪の意識から抜け出せずにいるのです。

そう言えば、厳しい質問をしてくださった相馬さんからメールが届きました。

課題となる問題が過不足なく網羅され、どれも筋が通っている。

あの厳しい相馬さんからこう言われると、それがたとえ思いやりからであってもうれしいものです。

肝心なことを書かないままに長くなってしまいました。
私が今回、書こうと思ったことは、「お金がないほうが豊かになれるかもしれない」ということでした。
人はお金がなくても生きていけるが、人の愛がなければ生きてはいけないのです。
そして、お金には「愛に支えられたお金」と「愛を切り捨てるお金」がある。
これに関しては、いつかまた書くことにします。

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2015/12/07

■節子への挽歌3017:久しぶりの「もくれんの涙」

節子
ついでにというのもなんですが、もう一つ昨日の関連で書いてしまいましょう。

コンサート終了後、打ち上げ会をやりました。
今回のコンサートをプロデュースしたのは宮内さんです。
私は実際には何もやらなかったのですが、宮内さんが超人のごとき動きによって、大成功させたのです。
打ち上げに参加する資格はなかったのですが、まあ参加させてもらいました。
宮内さんが、いろいろと気遣ってくれて、最長老者の私を引き立ててくれました。

20人ほどが参加しましたが、ほとんどがミュージシャンです。
プロもいれば、アマもいますが、私にはその差はあんまり意味がありません。
コンサートでは、12人一緒のギターの弾き語りがありました。
佐々木祐滋さんも、そこにも参加しました。
12人が一斉にギター演奏をするというのは、とても迫力があります。
前日の夜、リハーサルでも聴いていましたが、やはり本番になると雰囲気が違いました。
打ち上げには、その12人の半分くらいが参加したので、後半はそれぞれがギターで弾き語りをしてくれました。
みんなそれぞれに個性があって、素晴らしいです。
コンサートの司会もしてくださった若桑さんがイマジンの替え歌を歌ってくれました。
また違った感動がありました。

最後に、宮内さんが、佐藤さんとの出会いの歌ですと言って、「もくれんの涙」を歌ってくれました。
そういえば、そうでした。
あれが宮内さんとの出会いの始まりだったのです。
2008年10月19日。
宮内さんは、わが家の庭で家族のために弾き語ってくれたのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/10/post-a863.html
当時、節子を見送ってから1年後のわが家族は、まだおろおろとしていたはずです。
とりわけ私はまだ、あきらかに正常化していなかったでしょう。
そして宮内さんとの付き合いも7年以上が経過しているのです。
そして初めて、宮内さんと一緒の活動ができたのです。

昨日のコンサートは、私には実にさまざまな思いにつながるものになりました。
節子も、昨日はずっと私と一緒だったのだろうと思います。

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■節子への挽歌3016:女声合唱団「道」の浜田さんにお会いしました

節子
昨日のコンサートでの話をもう一つ書きます。
久しぶりに女声合唱団「道」の浜田さんにお会いしました。
コンサート終了後、浜田さんが声をかけてくださったのです。
8年ぶりでしょうか。

節子は元気なころ、女声合唱団「道」に入らせてもらっていました。
それで浜田さんのお名前を何回もお聞きしていました。
それとは全く別のルートで、私のささやかな地域活動の中でも、浜田さんとはお会いしていますが、記憶の中ではやはり節子つながりです。
わが家にも献花に来てくださいました。

実はこのコンサートを思いついた時に、最初に相談しようと頭に浮かんだお一人が浜田さんでした。
しかし浜田さんは、すでに別の形で公式の委員になっていたので、ご迷惑をおかけしてはいけないと思い、途中でやめた経緯があるのです。
正直に言えば、「道」のみなさんに、佐々木祐滋さんと一緒に「INORI」を歌ってほしいと思ったのです。
それは実現できませんでしたが、浜田さんが会場に来ていて下さったことはとてもうれしかったです。

そう言えば、節子が最後に外出したのも、実は昨日のコンサートの会場でした。
その日は、「道」の発表会でした。
節子はすでに歌える状況ではありませんでしたが、がんばって聴きに行ったのです。
私も一緒でした。
そこで、「道」の人たちや、他の知り合いにもたくさんあって、私が心配するほど、みんなと話し合えました。
節子には、とてもうれしい1日だったでしょう。

その同じ場所で、浜田さんにお会いできたのです。
浜田さんはいまも歌っているそうです。
もう少しゆっくりとお話したかったのですが、いろんな人にもお会いしたため、節子がお世話になったことのお礼を言い損ねてしまいました。

節子はほんとうに良い人たちに支えられていました。
いつもそう思います。

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■節子への挽歌3015:誰もいなくならない

節子
この数日、ちょっとまたバタバタしていて、挽歌を書かずにいました。
この3日間で、挽回します。

昨日、我孫子に広島から「サダコ鶴」がやってきました。
その寄贈式にSADAKO LEGACYの佐々木祐滋さんが来てくれるというので、我孫子在住の宮内さんや原田さんと一緒になって、祐滋さんと地元ミュージシャンとのコラボコンサートを企画しました。
宮内さんの頑張りで、とてもいいコンサートになりました。

ミュージシャンもすべて自発的に参加してくださったのですが、そのお一人に外山安樹子さんがいました。
外山さんはプロのピアニストです。
私は面識はありませんでした。
外山さんは2曲、演奏してくれましたが、1曲はご自身の作品で、「誰もいなくならない」でした。
心に深く入り込んでくる曲でした。

外山さんは、演奏に先立ち、この曲は谷川俊太郎の詩からインスパイアされて作ったと話してくれました。
谷川さんの詩をネットで調べてみました。
その詩の一部を紹介します。

  誰もいなくならないとぼくは思う
  死んだ祖父はぼくの肩に生えたつばさ
  時間を超えたどこかへぼくを連れて行く
  枯れた花々が残した種子といっしょに

  さよならは仮のことば
  思い出よりも記憶よりも深く
  ぼくらをむすんでいるものがある

  それを探さなくてもいい信じさえすれば

大切な祖父を喪った少年の思いをうたった詩です。
この詩に出会った時、外山さんも「大切な人」を喪った時だったそうです。
そして、生まれたのが「誰もいなくならない」です。
この曲が題名になっている外山安樹子トリオのアルバム『Nobody Goes Away』のプロモーション映像があります。
よかったらお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3osBiAGIPPY

誰もいなくならないとぼくは思う。
そう思えるようになるまでには、私自身はかなりの時間がかかりました。

打ち上げの時、外山さんと偶然にも向かい合いました。
「大切な人」のことを訊きたい気持ちを抑えるのに苦労しました。

余計な話ですが、「誰もいなくならない」はピアノのソロの方が、私は好きです。

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2015/12/04

■節子への挽歌3014:科学知識と生活知識

節子
神戸でイオン水などに取り組んでいる田中さんが湯島に来ました。
田中さんは、加野さんの紹介で、交流が始まったのですが、世間的な常識から少し逸脱している人です。
かつては自家飛行機まで持つ生活をしていたようですが、いまはかなりストイックな生活をされているようです。
その人間観や仕事観に共通するところがあるので、田中さんの信条に役立ちたいと思っていますが、私のように、社会から脱落した生き方をしているとなかなかお役にはたてません。

残念なのは、もう少し早く田中さんに会っていたら、節子も私も、少し違った人生になっていたかもしれないということです。
田中さんのイオン水は、生命力を高める効果があるのです。
「奇跡」が起きたかもしれません。

田中さんと話が通ずることのひとつに、現実から発想するという点があります。
以前、田中さんに頼まれて我孫子で放射性汚染土壌の除染実験をやりました
その結果は、通常の科学では説明できないようなことが起こりました。
10人ほどの参加者がいましたが、一人を除いて、「科学知識」を基準にしてその実験の価値を認めませんでした。
みんな「科学知識」が絶対のものだと思っているのです。
しかし、「科学知識」はその時点で分かっていることでしかありません。
そう考える人がとても少ないのです。

田中さんも私も、知識よりも現実を基本にしています。
現実に起こったことを大切に考えるという姿勢です。
その姿勢で考えると、話題になったSTAP細胞事件も違った見え方がしてきます。
今日は、そんな話もでました。
節子がもし隣で聞いていたら、どう評価したでしょうか。

「科学知識」などほとんどない節子の「生活知識」は、意外な示唆を与えてくれることがありました。
知識に偏重しがちな私の生き方を、節子は少しだけ相対化してくれたのです。
いまの私の世界観は、そのおかげです。
節子は、そんなことは全く思ってもいなかったでしょうが、私はそう思っています。

節子との会話がなつかしいです。

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2015/12/03

■節子への挽歌3013:生活能力の低下

節子
やはり私は健全に老化してきているようです。
無意識の気持ちの上では、老人の自覚は皆無なのですが、心身ともにかなり老化してきています。
この数日感じているのは、問題を構造化し整序する力が大幅に低下しています。
いま抱えているさまざまなプロジェクトや課題を、うまく包摂的に対応できなくなっていて、効果的に取り組めなくなっているのです。
数年前まではこんなことは全くありませんでした。
20近いプロジェクトや課題を、並行して進め、しかもそれらの関係性を自然と構造化できていたように思います。
だから毎日がわくわくできていたのです。
しかし、いまはそんなことはできず、ただただ混乱し、一つずつ対応するような退屈な進め方になりがちです。
しかも、トラブルが煩わしくもなってきました。
トラブルこそが面白いはずなのに。

論理的に思考できる仕事と違って、生活においては、論理とは別次元の事態が常に起こります。
生活の予定を組んでいても、思わぬ来客があったり、急に雨が降ってきたり、突然の訃報があったり、気分が乗らずに問題を先送りにしたり、思ってもいなかったことをやってしまったり、いろいろあります。
こうしたことに関しては、男性よりも女性の方が柔軟に対応できるように思います。
仕事場と生活場では、あきらかに様相は違うのです。
私が若いころ、よく「女性は論理的ではない」という言い方がされていましたが、私は、女性の論理は男性の論理よりも大きな論理性を持っていると考えていました。
そしてそれを学びたいと考えてきました。
しかし、残念ながら時代の流れは反対で、女性たちが男性的な「小さな論理」思考によって、男性社会に入り込みだしてきているように思います。
しかし、それによって失うのは、たぶん「生活能力」でしょう。
生活は、大きな論理で動いているからです。
そこが希薄なると社会はおそらくもろいものになっていくでしょう。
いまの日本は、まさにそうなっているように思います。

挽歌編にしてはいささかややこしいことを書いてしまいましたが、要は私は最近、問題の対応を楽しむのではなく、少し追われ気味になっているということです。
まちがいなく「生活能力の低下」です。
そう言えば、いまパソコンでこの文章を書いている机(3つ使っています)は、この1か月以上、整理していないです。
書類の山でうずまっています。
それこそが頭が整理されない原因かもしれません。
今日は帰宅したらまずは整理整頓から始めましょう。

節子がいなくなってから、どうも生活が投げやりになりがちです。
なんだか一昨日と同じようなことを書いてしまいました。
困ったものです。

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■戦争と平和を考える5:戦争と犯罪

この1週間ばたばたしていて書けませんでしたが、世界はますます「戦争状況」になってきています。
昨日もアメリカで銃撃事件が起こりましたが、武器を持つことで人の意識は変わっていくのでしょう。

前回、日本の自衛隊は「戦争をしない軍隊」と書きました。
かりに海外に派兵された自衛隊員が、現地で戦闘に巻き込まれ、相手を殺害した場合、それは「警察官職務執行法」の下で裁かれることになるのでしょうか。
つまり、正当防衛、緊急避難か、あるいは殺人かが問われることになるでしょう。
軍隊である場合は全く違います。
軍隊は、戦時において相手を殺傷し、ものを破壊するための集団です。
そうした行為は、犯罪にはなりません。
つまり、殺傷や破壊を正当化するのが、軍隊という組織、軍事力という力です。

昨日のアメリカの銃撃戦は「戦争」とは捉えられないでしょう。
ではパリのテロ事件はどうか。
ISのパルミラ遺跡の破壊はどうか。
どこまでが正当化され、どこまでが犯罪なのか。
実に悩ましい問題です。

現在のような状況のなかでは、「犯罪」と「戦争」を峻別することは難しいでしょう。
戦争はある意味でルールと論理に従って展開されますが、犯罪はそうしたものから逸脱するところで展開されます。
そこがつながってきてしまっているのが、グローバリゼーションの時代です。
国家の統治力が相対化してきてしまったということです。

抑止力に関して、前の2つのシリーズで何回か書きましたが、抑止効果を支えるのは論理です。
たしかに国家間の戦争には軍事力が抑止効果をもった時代はあったかもしれません。
たとえば、冷戦時代の初期はそうだったかもしれません。
しかし、グローバリゼーションのなかで、それこそ「格差」や「貧困」がグローバルに広がってきている状況においては、それこそが犯罪としてのテロを生み出すことは否定できません。
戦争が犯罪性を高めてきている現在、これまでの抑止力の考え方では対応できないでしょう。

犯罪に対して効果があるのは「危機管理」発想です。
危機管理においては、たぶん軍隊よりも警察の方が効果的に作動するでしょう。
そもそも組織の目的が違うからです。

グローバリゼーションによって、国家の意味が変化してきているように、国家間の争いであった戦争の意味も変質してきています。
犯罪と戦争が、まさに「シームレス」につながってしまったのです。

いま国家はISにてこずっていますが、おそらく「問題の立て方」あるいは「構造の捉え方」が間違っているためでしょう。
パルミラ遺跡を破壊したISは、単なる犯罪集団でしかありません。
それへの対処で、国家が争うなどということはあってはならないはずなのですが。

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2015/12/01

■節子への挽歌3012:生活の充実とは何なのでしょうか

節子
最近いろいろとあって、時間的にも精神的にもあまり余裕がなく、畑もご無沙汰になっていました。
ずっと気になっていましたが、今日の午後、娘に手伝ってもらって、畑にチューリップの球根を植えてきました。
畑の道沿いも今年は少しきれいになってきていますが、来年こそは花壇を復活させたいと思います。
庭のランタナも畑に持っていきましたが、今年の冬は暖冬のようなので、冬超えしてくれるかもしれません。
先日植えた大根もだいぶ育っていました。
今日は娘に料理してもらいました。
収穫しわすれていたピーマンは、硬くなってしまっていましたが、むげに捨てる気もなりません。
何とか食べたいと思います。
自分で食材を育てると、捨てる気にはなりません。
娘が料理に使ったセリの根っこをプランターに植えたらとくれましたので、これもプランターに植えました。
私はセリが大好きなのです。

今日も在宅でしたが、いろいろありました。
今日は、5日にあるところで話すための資料づくりをするつもりだったのですが、やはりその準備は全くできませんでした。
人生は予定通りにはいかないものなのです。
しかし、最近は少し問題が多発しすぎです。
なかなか頭がそれについていけずに、生活が混乱してきています。
どこかで一度、整理しなければいけないのですが、あまりに異質な課題を背負い込みすぎてしまい、自己管理能力を超えてしまっています。
間違いなく、歳のせいでの能力低下です。
困ったものです。

それにしても今年ももう12月。
今年は何もしないままに終わりそうです。
節子がいなくなってから、空疎な年を重ねているような気がしてなりません。
生活に充実感が全くと言っていいほどないのです。
生活の充実とは、何なのでしょうか。
それが最近まったくわからなくなってきています。

明日は、心静まる日でありますように。

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■緊急カフェサロン「辺野古のたたかいは今」のご案内

沖縄の辺野古で起こっていることは、私たちの未来に深くつながっています。
そして、私たちの生き方にも深くつながっています。
そこでいま、実際に何が起こっているのか。
おそらくマスコミ報道では伝わってきていないことがたくさんあるはずです。
そして、そこで起こっていることは、辺野古、沖縄の人たちだけではなく、すべての国民の未来に深くつながっているはずです。
ニーメラーの二の舞は避けたいものです。

そんな思いを持っていたところ、日本地域開発センターの北川さんのご紹介で、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長の緒方修さんが、湯島のサロンでお話をしてくださることになりました。
テーマは「辺野古のたたかいは今」。
前半は。DVDで生々しい現場の状況も見せてもらいながら、緒方さんにお話しいただき、後半はいつものように話し合いできればと思います。
そして、参加した人たちそれぞれが、自らのできることも考えられればと思っています。

緒方修さんは、長年、文化放送に勤められた後、沖縄大学などで教鞭をとられ、併せてさまざまな活動に取り組まれてきました。
1999年から那覇にお住まいで、現在はNPO法人アジアクラブ理事長でもあります。
辺野古でいま、何が起こっているか。
その生々しいお話を聞かせていただけると思います。
急なお誘いですが、ぜひ多くのみなさんにご参加いただきたいと思っています。
参加ご希望の方は、下記のところにお申し込みください。
定員になり次第、締め切らせてもらいます。

○日時:2015年12月14日(月曜日)午後6時半~9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「辺野古のたたかいは今」
○話題提供者:緒方修さん(東アジア共同体研究所琉球・沖縄センター長)
○会費:500円
○参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)


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