■節子への挽歌3034:「四苦」から「四喜」へ
節子
僧侶の友人が湯島に来ました。
用件はあったのですが、いつものように、それとはまったく別の話になりました。
一言で言えば、お寺ができることはたくさんあるのではないかという話です。
そこで、その人は「四苦」の話を出しました。
いうまでもなく、四苦とは「生老病死」、つまり生きる苦しみ、老いる苦しみ、病める苦しみ、死ぬ苦しみのことです。
それに対してお寺が関われることはたくさんあるのに、いまのお寺は死しか扱っていないのではないかということです。
私は、最近の思いを話しました。
そもそも「四苦」の発想を変える必要があるという話です。
節子がいなくなってから、私もそれなりにいろいろと考えて、最近行き着いた心境は、「四苦」ではなく「四喜」なのです。
つまり、生きる喜び、老いる喜び、病める喜び、死ぬ喜びです。
老いることは嘆き悲しむことではありません。
老いることを楽しむならば、それは喜びに繋がっていきます。
病いはどうでしょうか。
確かに節子は最後の1か月は、壮絶な闘病生活でした。
苦しかったかもしれませんが、病で得たものも少なくなかったでしょう。
事実、節子はそう話していたこともあります。
病いにかからないにこしたことはありませんが、かかった以上は嘆き悲しむよりも、日々を大切にすることで、生きる意味を問い直せることもあります。
むしろ病むことを楽しむくらいでないと、病いに負けてしまいます。
死は確かに避けたいでしょうが、生きた以上、避けられないことです。
恐れることも悲しむこともない。
避けられないことであるならば、しっかりと受け止めるしかありません。
死を正面から受け入れれば、死の恐怖から抜けられるでしょう。
死にさえ、歓びがあるというのが、私の最近の心境です。
そして、老いがあり、病いがあり、死があればこそ、生きることが楽しくなってくる。
そこにこそ、生きる喜びがあるのです。
発想を、四苦から四喜に変えれば、世界は全く変わってきます。
そんな話を私の体験から話させてもらったのです。
さらに言えば、生きるということは、老いることであり、病むことであり、死ぬことなのです。
人生から、老いや病いや死を取り除いたら、後に残るのはなんでしょうか。
老いや病いや死こそ、人生を豊かにしてくれるものだと考えたら、お寺の意味もまた変わってくるでしょう。
さて来年はお寺にも関わりたくなってきました。
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