■節子への挽歌3020:声をかけてくれた人が思い出せません
節子
オフィスに向かう実盛坂の下で、歩いてきた人に「こんにちわ」と声をかけられました。
突然のことで、すぐに返事を返しましたが、その方はそのまま行き過ぎていきました。
50代の男性で、マスクをしていたので顔はわからなかったのですが、私にはまったく心当たりがありません。
まさか、追いかけていって、「どなたでしょうか?」とも訊けずに、オフィスに着いてからもしばらく考え込んでしました。
湯島には27年通っていますが、最近はあまり近辺とは付き合いもなく、知っている人がいるとは思えません。
姿かたちから、あの人かなと思いつく人はいるのですが、まさか湯島で会うはずもない人ですし、もし会ったとしても、「こんにちは」で通り過ぎることもないでしょう。
考え出すとますます気になります。
ちなみに、その時には道を歩いていたのは私だけですし、私に向かって声をかけたのは間違いありません。
実盛坂は、とても急な階段です。
この坂の界隈ではこれまでも不思議な体験をしたことがあります。
前にこの挽歌にも書いた気がしますが、「ひとりの媼とふたりの童」としか言いいようのない3人に会ったのです。
いまから思えば、三川内焼の絵柄のような3人でした。
3人を見かけた瞬間、不思議な気持ちにおそわれました。
それだけならたいしたことではないのですが、その同じ3人に、それから少しして、確か大阪で会ったのです。
いや、これ自体が記憶違いかもしれませんが、いずれにしろ、同じ3人に、全く違ったところで会っているのです。
それもいずれも、3人の服装はもちろん、その様子も同じでした。
確かめればよかったと思うのですが、そうできなかった何かがあったのです。
私の幻想か幻覚かも知れませんが、その頃は私自身、彼岸と此岸を行きかいながら生きていた時期でもありました。
そんなことをまた思い出してしまいました。
それにしても、今日の「こんにちはの人」は誰だったのでしょうか。
湯島に知り合いなどほとんどいないのですが。
湯島も、節子がいたころとはかなり変わってしまいました。
名刺やら資料などを印刷してくれていた印刷屋さんの夫婦は、節子がいたころにもう、高崎に転居しました。
とてもいいご夫婦で、節子ともささやかな付き合いがあったのでしょう。
転居後、節子に何かが送られてきていました。
近くのコンビニのオーナーの奥様は、もしかしたら経営難でオーナーを別の人に渡したかもしれません。
節子がいたころは、いつも節子はそこで買い物をしていました。
以前は時々、道で会うと話しかけてきてくれましたが、コンビニが改装された後、見かけなくなりました。
それで私もそのコンビニを使わないようになりました。
同じビルの近隣の人もほとんど変わってしまいました。
最近は、食事に行くことも少なくなりましたし、節子がいたころによく行っていたお店は、みんな代変わりしてしまいました。
湯島も変わってきているのです。
部屋からきれいな夕日が見えていたのですが、それを遮るような高層ビルが建ってしまいました。
節子がいたら、そろそろこのオフィスはやめようかという気になっていたかもしれません。
しかし、節子がいなくなったので、逆にここから去りがたくなってしまいました。
ここには節子がまだいるような気がするからです。
今朝会った、「こんにちわの人」も節子の知り合いかもしれません。
もう少し湯島には通うつもりです。
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