■節子への挽歌3035:久しぶりに葬儀の日のことを思い出しました
節子
時間があるので、もう一つ書くことにします。
2日ほど挽歌を書けていませんので、挽回しなければいけません。
前の話に続くのですが、それに関連して、節子の葬儀の話をしてしまいました。
節子が望んでいたような葬儀にはなりませんでしたが、節子は喜んでくれたと思っています。
ただユリやバラで囲みたかった祭壇は、菊中心になってしまいましたし、私自身がいささか精神的に不安定で十分な対応ができませんでした。
葬儀には、やはりしっかりしたアドバイザーやサポーターが必要ではないかと考えたことを話したのです。
節子を見送った後は、私自身がそうした「葬儀カウンセラー」になりたいと思うほどでした。
私なら遺族の思いをしっかりと聞いて、その思いをできるだけ実現する葬儀のやり方が見つけられるだろうと思ったのです。
やはり葬儀は自分で体験しないと分からないことがあるような気がします。
ただ、人によって思いは全く違うでしょうから、私の考えがいいとは限りません。
私のように、自分の思いの強い人間は、カウンセラーには向いていないでしょう。
そう思ってその考えは捨てました。
しかし、葬儀に参加すると、ちょっと違うよなと思うことは少なくありません。
節子を見送ってから、葬儀というものへの感じ方が変わりました。
あれは別れの儀式ではなく、つながりを確認する儀式かもしれないと思うようになりました。
お通夜と告別式が、それぞれ役割分担しているのかもしれませんが、いまはその違いもあいまいになってしまっています。
久しぶりに節子の葬儀のことを思い出しました。
本当に不思議な2日間でした。
いまも夢だったのか現実だったのか、どうも記憶が定かではないのです。
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