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2015/12/13

■節子への挽歌3023:「ゆっくりする」は「退屈にする」

節子
昨日は子ども関係のさまざまな活動をしている人たちの集まりに参加し、その後、みんなで食事に行きました。
参加するのはいささか躊躇したのですが、せっかくの機会なので参加させてもらいました。
やはりどこかに違和感が残りました。
私の居場所はますます小さくなってきているようです。
それに、女性たちの多い集まりは、どうも苦手です。

ビジネスの世界で活躍している人たちの集まりも違和感が高まっていますし、行政関係の人たちの集まりは別世界のようですし、NPO関係も大きな違和感があるのです。
私が安住できるところはどうもなくなりつつある。
こうやって人は彼岸に旅立つのでしょうか。
此岸への未練や執着は不思議なほどになくなってきています。

時評編でドラッカーのことを少し書きました。
彼は、自らの位置と役割がない社会は、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない、と書いています。
社会の中に、自らの居場所があることが、生きるということなのかもしれません。
それがどうも見つからない。
だから、どこにいっても、居ずらいのかもしれません。

今日は自宅でゆっくりしました。
とはいうものの、最近は「ゆっくりする」ということの意味がよくわからなくなりました。
節子がいないと、「ゆっくりする」は「退屈にする」と同義語かもしれません。
独りで時間を楽しむことが、どうも最近不得手になってしまっています。
他者と一緒でも退屈だし、一人でも退屈。
どうしようもありません。
でも、たとえ窮屈であっても、やはり誰かと一緒の方がいいのかもしれません。
今日、一人で過ごしていて、そんな気がしてきました。
居場所は与えられるものではなく、創りだすものかもしれません。
そのエネルギーが、たぶん枯渇しつつあるのでしょう。

今日も寒い1日でした。

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