■戦争と平和を考える8:見えない戦争
尖閣諸島をめぐって、中国が日本の領域を侵犯してくるのではないかという不安が、軍事力による抑止力を支持する人たちにはあるようです。
しかし、そういう「目に見える戦争」は本当に起こるのでしょうか。
もちろん「起こらない」ということはできません。
しかし、起こるとしたら、それは前にも書いたように「論理的」にではなく、「事故的」「偶発的」「判断ミス的」に起こるのではないかと思います。
そこでは「軍事力による抑止力」は、ほとんど意味をもたないでしょう。
防衛庁で防衛研究所所長を務め、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)も歴任した柳澤協二さんは、岩波ブックレットの「民主主義をあきらめない」の中でこう言っています。
グローバリゼーションの時代に対応するキーワードは、抑止力ではなくて、むしろ「戦争って駄目だよね」という以上に、「戦争したら損だよね」という認識なのではないかと思うんです。
軍事力による「戦争」は、政治手段としての役割は終えてしまったのです。
柳澤さんは、「少なくとも、このグローバリゼーションの時代において、「抑止」はもうキーワードではありません」と明言しています。
しかし、依然として、「軍事力による戦争の効用」にしがみつく政治家は少なくありません。
それは、それに共感する国民がいるからだろうと思います。
ドイツ国民はナチスを育てましたが、いまの日本国民は何を育てようとしているのでしょうか。
とても不安があります。
ところで、いまの日本は「戦争」とは無縁なのか。
必ずしもそうとは言えないように思います。
しかし、その「戦争」は「見えない戦争」、あるいはガルトゥングが言う「構造的暴力による戦争」です。
日本でも無差別殺人事件やテロまがいの事件はすでに起こっています。
つまり「テロ犯罪が起こりうる状況」にあると言っていいでしょう。
そうした中ではISの呼びかけに共振した動きが出ないとは限りません。
防備体制が弱い、いわゆる「ソフトターゲット」での「テロ」が発生してもおかしくない状況に、日本はあるということです。
それがどこかで「戦争」につながっていくことがないとは言えません。
緊急事態宣言が行われ、一気に戦争に向かいだすこともないとは言えません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/10/10-7d54.html
国家の安全保障にとっても、こうした動きを「抑止」することこそ、いま必要なことではないかと思います。
そのために何が必要かは明確です。
いまの政治はそれと正反対の方向を向いているように思えてなりません。
戦争と犯罪とは別のものですが、グローバル化の中ではそれが奇妙につながり始めています。
そこに問題の悩ましさと本質があります。
そして、戦争そのものがどんどんと見えなくなってきている。
自由貿易体制の推進も、もしかしたら「もう一つの戦争」かもしれません。
私たちの社会の秩序が壊れるとしたら、それはどこからなのでしょうか。
アイルランド人のレネ・ダイグナンさんは自殺者の多い日本の社会に衝撃を受けて、「自殺者1万人を救う戦い」という映画を制作しました。
私たちが、危機を感ずるべきは「仮想敵国」などではなく、いまの社会のあり方、言い換えれば私たち一人ひとりの生き方ではないのか。
レネさんは、そう語っているように思います。
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