■節子への挽歌3033:支え合う夫婦は過去のものなのか
節子
昨日は湯島で、私が話題提供するサロンを開きました。
サロンは25年以上やっていますが、私が話すサロンは2回目です。
「お金ではない支え合いを考える」というテーマで、私の生き方を絡めながら1時間ほど話をしました。
年末でクリスマス前の休日という日程を組んだので、参加者は少ないと思っていたのですが、20人ほどの人が集まってくれました。
その様子は時評編で書きました。
話しながら、私だけで話していると少し独りよがりになるなと感じました。
節子が私の話に絡んで、それはきれいごとでしょうとか、家族がどれほど迷惑したかなどと、話してくれたら、もっと私の思いが伝わったのではないかと思います。
今思い返せば、私の生き方が、節子にどう映じていたかを、節子に訪ねたことはありません。
たぶん節子は、大きくは満足していたと思いますが、小さなところでは異論がかなりあったかもしれません。
あから夫婦喧嘩が多かったのかもしれません。
このブログにしてもそうです。
時々ですが、娘が読んで、少し創作が入っているんじゃないかと言うのです。
私は、事実と違うことを書いているつもりは全くないのですが、どうもそう感ずることもあるようです。
たしかに、私が節子を美化している傾向は否定できません。
しかし、それはまあ、愛してしまった者には避けがたいことですし、何よりもこれは「挽歌」なので、少しくらいの飾り立ては許してもらえるでしょう。
ところで、昨日のサロンで、家族の話題がちょっと出ました。
その時にふと、「家族ってお金を介さない支え合いの基本」なのではないかという思いが浮かびました。
その時はあまり考えがまとまらなかったので、発言はしませんでしたが。
私たちは、正真正銘、お金とは無縁に支え合ってきました。
そもそも家族とは、そういうものだと私たちは考えていました。
47歳の時に会社を辞めるまでは、私が一応、大企業の正社員でしたので、経済的には恵まれていたと思いますので、あまり説得力はないのですが、お金がなくとも私たちは支え合って生きてきたと思います。
実際に、私たちが一番楽しかったのは、6畳一間での最初の1年でした。
人は困った時にこそ、支え合うものです。
経済的に貧しい社会は、支え合いが広がると言われます。
と言うか、昨日も話させてもらったのですが、生きるとは支え合うことだろうと思います。
しかし誰と支え合っていいかわからないので、まずは一緒に暮らす相手を探して結婚するわけです。
それが男女である必然性はないと思いますが、男女のほうがいろんな意味で好都合なところはあるように思います。
最近は経済的な収入が少ないから結婚できないといことをよく聞きますが、私の考えからすれば、だから結婚するのがいいと思うわけです。
支え合って生きていけば、お金の支出はかなり減るはずです。
でも今の時代はどうもそうなっていないようです。
もしかしたら、夫婦は支え合う関係ではなくなっているのかもしれません。
では夫婦とはいったい何なのか。
節子だったら何と答えるでしょうか。
そんなことはあなた一人で考えてよ、と言われそうです。
しかし、仮にそうであっても、問うことができる人がいることが大切なのでしょう。
やはり夫婦は支え合う関係なのだろうと思うのですが。
そのつもりがなければ、夫婦になる必要はないでしょうから。
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