■自由とは責任を伴うもの
長野県軽井沢町で1月15日に起きた軽井沢町でのスキーバス転落事故は41人が死傷するという惨劇になりました。
事件を起こしたのは、深夜に首都圏を出発し、スキー場に向かう「夜発」と呼ばれるツアーのバスでした。
報道によれば、スキー人口が減るなか、顧客を増やそうと、こうした「割安プラン」を企画する旅行会社は多いそうです。
事故で亡くなられた人たちのことが大きく朝日新聞で報道されています。
「学生12人 描いた夢」と大きな見出しで前面に亡くなった12人の学生たちのそれぞれの紹介があります。
とても違和感があります。
どこかおかしいのではないか。
亡くなった12人の若者に、特に大きく同情する気にはなれません。
もっと同情したい人は、私のまわりにもたくさんいるからです。
関係者の方がいたら、申し訳ないのですが、お許しください。
もちろん個人の死への追悼の念は持っていますし、バス会社への怒りも感じます。
しかし、この事故で問われるべきは、私たちの生き方ではないかと思うのです。
12人の若者を責める気はありませんが、単に「被害者」としてしか考えない社会の風潮には違和感があります。
思い出すのはポランニーです。
ポランニーは、若いころに書いた「自由について」という論考でこう書いています。
自由であるというのは、典型的な市民のイデオロギーにおけるように義務や責任から自由だということではなく、義務と責任を担うことによって自由だということである。
それは免責の自由ではなく自己負担の自由であり、したがって、そもそも社会からの解放の形態ではなく社会的に結びついていることの基本形態であり、他者との連帯が停止する地点ではなく、社会的存在の逃れられない責任をわが身に引き受ける地点なのである。
市場社会は、個人の責任を「免責」する機能があります。
保険のような制度や株式会社という仕組みは、まさに個人の責任をシェアし、みんなを生きやすくするために生まれた知恵だと思いますが、そうした社会の中に住んでいると、そもそも責任という意識そのものが消え去りがちです。
経済人類学を提唱したポランニーは、市場経済で消費の自由を謳歌する消費者は、価格さえ支払えば入手できる財やサービスが、直接には目に見えない多数の人間の「労苦や労働の危険、病気や悲劇的事故という犠牲を払って得られる、という事実が存在しないかのような錯覚に簡単に陥る」とも書いています。
そうしたことへの気付きから、最近はフェアトレードの考えが広がっているとはいえ、私たちの多くは、まだ「安いもの」の「意味」へは極めて鈍感です。
そこにどれほどの「リスク」があるか、思いもしなくなってきています。
格安バスツアーには、当然それなりのリスクがあるわけです。
昨日、湯島で開催した「サービス文明」をテーマにしたサロンでもトンネルの天井剥落や危険な橋梁に関する話が出ました。
それらをすべて「安全」にするのは無理でしょう。
トンネルにしても橋梁にしても、そこに「リスク」があることを私たちは意識しなければいけません。
「安全」を行政や企業などの第三者にただ要請するだけではなく、安全を望むのであれば、自らもまた応分の責任を負担しなければいけません。
今回の事故は、そうしたことを考えるきっかけにしたいものです。
問われているのは、私たちの「生き方」です。
そう考えると、いまのマスコミの報道姿勢には、どうしても違和感を持ってしまうのです。
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