■節子への挽歌3051:人間とはバラを楽しむもの
節子
三連休だというのに、まだ怠惰さから抜け出せずに、ダラダラしています。
ダラダラしていると、つい挽歌もさぼりたくなってしまいます。
昨日は結局書かずに終わってしまいました。
このままだと今日も書かずに終わりそうです。
困ったものです。
まあそういうダラダラしている人は私だけではなさそうです。
某社の社長のKさんから電話がありました。
今日と明日、暇なんだけど、湯島でなんかやっていないのか、という電話です。
話していると、Kさんは「人間とは何か」がわかったというのです。
要するにそれを私に話したいのかもしれません。
今日はもう出かけたくなかったので、明日、お会いすることにしました。
さて「人間とは何か」とは難しい話です。
Kさんが、パスカルも気がつかなかった定義だというので、私はパスカルにヒントを得て、「人間とはバラを楽しむもの」だと思うと、軽はずみな定義をしてしまいました。
でも定義というのは、口から出てしまうと、その気になってしまうものです。
「人間とはバラを楽しむもの」。
なかなかいい定義です。
パスカルとバラのことは、以前、この挽歌でも書いた気がします。
湯島の玄関の花は、節子が行けなくなってからは、造花にしていますが、最後に節子がセットしたバラの花のままです。
わが家の庭のバラは半分くらいなくなってしまったと思いますが、節子はバラが好きでした。結婚してから、節子は私の友人の男性から真紅のバラの花束をもらったことがあります。
それ以来、節子はバラの花が好きになったのかもしれません。
まあ、好みなどというものは、そんなものです。
念のために言えば、「人間とはバラを楽しむもの」の「バラ」に特別の意味があるわけではありません。
食べられもしないバラを楽しむのが人間だということです。
言い換えれば、パンだけでは生きていけないのが人間なのです。
しかし、問題は、最近私がどうもバラを楽しめなくなっていることです。
バラにあまり関心がなくなっているのです。
かといって、パンに関心があるわけでもありません。
生物的に生きることにも、人間的に生きることにも、さほど興味がなくなってきているというべきかもしれません。
涅槃の境地に近づいてきたと言いたいところですが、単に怠惰さの中で人間であることを忘れつつあるのかもしれません。
バラを楽しむことを、思い出さなければいけません。
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