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2016/01/15

■節子への挽歌3055:笑い

怒り、涙、とくれば、その後はやはり「笑い」が来てほしいと思います。
昨日、湯島に向かう途中に、ふと、そう思いました。
思うことは実現するものです。

湯島では2人の人に会いました。
一人は今年から交流が始まった「魔法使いのカシュカシュ」さんです。
魔法使いと話していると、ついつい現実の世界から飛んでしまい、自然と笑いが出てきます。
もう一人は、生き方においてノマドな人です。
ノマドな生き方もまた、自然と笑いが呼び起こされます。
それなりに笑いのあった1日でした。
人は気分が重くても笑えるものなのです。

笑いといえば、最近、笑いヨガ(ラフターヨガ)の活動をしている人たちと付き合いが増えています。
私のまわりにもすでに10人以上のラフターヨガの実践者がいます。
いい人ばかりです。
しかしなんでわざわざ「笑い」に取り組むのでしょうか。
どこかに哀しさを感じてしまいます。
人が「笑い」に意味を感ずるときはどういう時か。
それを思ってしまうのです。

節子が病気の深刻さを知った時、数日は泣いてばかりでした。
散歩に出かけても涙が出てきます。
そして、「笑い」が免疫力を高めるからと、笑いを起こすようなテレビなどを見ることもありました。
綾小路きみまろのDVDを送ってきてくれた人もいます。
しかし、免疫力を高めるために笑うことは、いささか哀しいことではあります。
私も節子も、そうどこかで感じていたのでしょう。
大切なのは、「笑うこと」ではなく、「笑いがあふれるような生き方」でしょう。
しかし、そういう生き方は、闘病中の当事者に求めるのは、かなり酷なことでもあります。
笑うために何かをするというのは、私の性分には会いません。
節子もまた、そういう考え方の人でした。
そんなことがなくても、わが家には笑いは十分にあったはずです。
しかし、いまにして思えば、必ずしもそうではなかったのかもしれません。

節子が逝ってしまった後、私に「怒り」と「涙」があふれ出しました。
犬の散歩をしながら、どれほど涙を流したでしょうか。
空に向かってどれほど怒りをぶつけたでしょうか。
しかし、怒りは消えるものです。
そして涙さえ、意味を変えてきます。
ただ、笑いだけはたぶん永遠に戻っては来ないでしょう。
笑っていてもどこかに違和感を持ってしまうのです。

愛する人を喪うと自分の一部を失う。
失うのは、感情かもしれません。
節子がいた頃といなくなってからでは、あきらかに私の喜怒哀楽は、どこかリアリティを感じなくなってきています。
とりわけ「笑う」ことがなくなった。

会社を辞めてからの私に取材して記事にしてくれた人がいます。
その人は、私のことをこう書いてくれました。
「ともかくよく笑う」
しかし、最近は笑うことが少なくなった。
しかしこれだけはどうしようもありません。
免疫力が低下してしまっているかもしれません。
身体はともかく、精神は過剰なほどに弱くなってしまっているのかもしれません。

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