■節子への挽歌3065:誰もが友だちという感覚
人生はうまくいきません。
1日、延ばしたにも関わらず、風邪が治った気分になりません。
生命力の衰えには立ち向かえなくなってしまったのかもしれません。
仕方がないので、今日も風邪モードで過ごしました。
にもかかわらず夕方になってまた熱が出てきました。
ついついパソコンでメールを見てしまいました。
昨日の「支え合い」サロンの報告に関するコメントが、いくつか届いていました。
その中に、懐かしい名前を見つけました。
当時、「納得して医療を選ぶ会」のメンバーだったMさんです。
体調を崩されて、いまは活動をしていないそうです。
病院を生活者の視点で問いなおそうと言う主旨で立ち上げた、「ヒポクラテスの会」に参加してくれた方です。
当時、いくつかの病院評価に取り組むNPOのプロジェクトを支援したのですが、すべてうまくいきませんでした。
それで自分も当事者になって立ち上げたのが、この「ヒポクラテスの会」なのですが、節子の関係で、ある時から私自身が「病院アレルギー」をもってしまったのです。
それで、立ち上げ途中だったのですが、活動を中断してしまいました。
いつか再開しようと思いながら、まだ再開できずにいるプロジェクトです。
もっとも状況は10年前とはかなり変わっていますので、いまさら私が出る幕でもないのですが、気になっているプロジェクトの一つです。
そのMさんが、「支え合い」に関する私見を投稿してくださったのです。
まさかいまなお、このメーリングリストを読んでいてくれたとは思ってもいませんでした。
ついついうれしくなって、他の人へのコメントも含めて、返信しました。
おかげで、さらになんだか辛くなってきました。
もうやめて、今日もまた8時に就寝することにしました。
時間は山のようにあるのに、何もする気が起きない。
それがこんなにつらいとは、思いもしませんでした。
ちなみに、Mさんの名前には覚えがあるのですが、顔は全く思い出せません。
私がとても幸せなのは、それでも私はMさんが友人のよう感じられるタイプなのです。
ちなみに、彼女は私のことを全く覚えていないかもしれませんが。
人間は自己の存在を、他者が自己の存在を認識することによってしか証明できない。 そう考えると、自己が存在しなくても、他者が自己の存在を認識することによって、人間は存在することが可能となる。
これは、神野直彦さんがある本で書いていた言葉です。
彼岸と此岸は、どうも地続きのようです。
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