■節子への挽歌3056:人と関わるということ
節子
広島のOさんが、昨日電話してきてくれました。
この挽歌を読んでいて、私の精神があまりに上下しているのを心配してくれたのでしょう。
この挽歌は、時々読者がいることを忘れてしまうことがあります。
読者を意識すると、それなりに「見栄」も張れるのですが、忘れてしまうと支離滅裂になってしまいます。
気分のぶれは隠しようもありません。
Oさんは福祉の世界で活動されていますが、この数日、大変なご苦労をしていたようです。
福祉の世界は、本来的に「人の生き死に」に関わる世界ですから、単なる「労働」や「仕事」とは全く違うものです。
しかし、最近はそれがすべて「ビジネス」にからめとられようとしています。
それに抗うように、活動している人も決して少なくありません。
節子が闘病していた時にも、そういう人に何人かお会いしました。
そういう人に、どうやってお礼をしたらいいかわからないのですが、まあ私にできることは「恩送り」、つまり、誰かに対して、同じような対応をすることです。
福祉の世界に関わりません。
人と関わるということは、そういうことかもしれません。
だからこそ、煩わしくもあり、喜びでもある。
しかし、最近の「人との関わり方」は極めて無機的で、感情を入り込ませないようにする傾向が強まっているような気がします。
人間関係が、まるで機械における部品関係のようになってきています。
そうした社会が行く着く先は明らかです。
人のいない社会は独走し、全体主義へと向かうでしょう。
そうならないように、いろんな人が出会い、いろんな意見や生き方があることの面白さを気づきあうサロンをやっていますが、一人でやっていると頭が混乱したり、時に案内を忘れたりしてしまいます。
そのおかげで、私は実にさまざまな人との出会いに恵まれ、機械部品にならずにすんでいますが、それが幸せな生き方かどうかはわかりません。
気分が乱高下したり、時に怒りや悲しみに襲われたりする人生が幸せなのかどうか。
節子という伴侶がいたら、波乱に満ちた生活は間違いなく楽しいでしょう。
しかし、一人だと、その面白さや楽しさに気づかず、悲しさはただ悲しいだけ、怒りはただ怒りだけになっているのかもしれません。
でもまあ、湯島でのサロンに来てくれる人がいるのですから、少しは誰かの役には立っているのでしょう。
明日のサロンも、いま15人目の申込者がありました。
明日は元気をもらえるといいのですが。
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