« ■節子への挽歌3063:不覚にも風邪のようです | トップページ | ■節子への挽歌3064:風邪の最終日 »

2016/01/24

■カフェサロン「支え合い社会を考えるパート2」の報告

昨日のカフェサロン「支え合い社会を考えるパート2」は9人の参加でした。
予想に反して、女性は一人だけでした。
そのせいか、具体的な仕組みを話し合うつもりが、考え方や制度の方に話が行きがちでした。
具体的な仕組みを考える場合は、自分の生活を起点として、こんな仕組みや場がほしいというところから一人称で話し出さないといけないのですが、やはり時期尚早だったのかもしれません。
みんなあんまり困っていないのです。
まあそれが困ったことなのですが。

坪倉さんが自分の考えをまとめたペーパーをつくってくれたので、まずはそこから話をはじめました。
坪倉さんは、支え合いの基本単位として「家族」を核においています。
私も同じ考えですが、前回、坪倉さんがその話をしたら女性陣から厳しい批判の意見が出ました。
「家族」の意味が、男性と女性とではまったく違うのかもしれません。
これは大きなテーマですが、家族を支え合いの基本にしないとしたら、何が基本になるのかを、一度、女性に問題提起してカフェサロンしたいと思います。
問題提起してくださる女性を募集します。
しかし、やはり基本は家族でしかないのではないかと私は思います。
そうでないと未来を生み出す子どもたちの居場所がなくなるからです。

そもそも「支え合い」という言葉がこれほど話題になること自体に、社会のおかしさを感ずるのですが、そもそも「生きる」とは「支え合う」ことです。
もし「支え合い」が必要でないとしたら、その人は生きていないとしか言いようがありません。
それが私の基本的な考えで、要は、みんなもっと「生きましょう」と言うのが、パート1での私のメッセージでした。
どうもうまく伝わっていないようなので、今回また少しややこしい話をしました。

人間(西部知はすべてそうですが)は、生産しながら消費している存在です。
生きるとは、「生産」と「消費」の組み合わせですが、一人では自給できないので(必要なすべてを生産できない)、他者とのやり取りが大切になってきます。
自分が生産した余剰なものを他者に使ってもらい、他者が生産した余剰なものを使わせてもらって、生きることが成り立っています。
ここで、生産するとは必ずしも、「モノの生産」だけではありません。
その最小単位が家族であり、近隣社会であり、親族社会でした。
つまりそこでは、「支え合う」ことが生きることだったわけです。

ところが、近代になってから、生産と消費は切り離されました。
生産機能を集中させ、産業が成立しました。
人は、自らの生産機能をそこに買ってもらうことになりました。
しかし、生産したらそれを売らなければいけません。
そこで「消費者」がつくりだされました。
そして「市場」が生まれ、市場社会と言われるほどに、社会は汎市場化してしまったわけです。
そして、人は自らの消費機能を、その市場に吸い取られてきているのです。
しかも、近代の産業社会は、「生産の場」と「消費の場」が切り離されました。
ですから、生産と消費を統合していた、「家族」「近隣社会」などは不要になってしまいました。
逆に、そうしたものを壊すことで、市場は拡大し、産業は発展してきたわけです。
私がしばしば書いているように、「女性の社会進出」は「女性の市場化」でしかありません。

この調子で書きだすときりがないのですが、まあそんなことを話させてもらいました。
でもまあ、そんな私の話とはあんまり関係なく、話し合いはいろいろと広がりました。
若衆宿や頼母子講の話も出ましたし、持てる者が持てない者を助ける関係が自分の親の代にはあったという話、プ―タローでも生きる場所があったという話、農福連携の話、支え合いの前に人をつなぐ共通の話題になるものが大切だ、という指摘もありました。

就労支援活動などに取り組んでいる阿部さんが、社会的弱者とされる人たちは、誰かに役立ちたいと思っている人が多い、いう話をされました。
彼らは、不足を嘆いているのではなく、過剰を嘆いているのです。
もしかしたら、そこに「支え合い」社会を考える重要なヒントがあるかもしれません。
少なくとも私のまわりのほとんどの人は、それとは真逆な考えをしています。
誰かの世話をするのが福祉だとかケアだと思っている人が多いですが、大切なのは、誰かの世話になるということかもしれません。
つまり、「支える」ことを起点として考えるのではなく、「支えられること」を起点として考えることが大切かもしれません。
とすれば、支え合う仕組みを作る早道は、私がまず、支えられないと生きていけない存在になるのがいいかもしれません。
しかし、よく考えてみると、いま既にそうなっているような気もしますが。

昨年、スペインのサンチアゴ巡礼をしてきた鈴木さんが、支え合う場ってスピリチュアリティにつながっているようだと言って、巡礼路にある宿泊所の話をしてくれました。
ビジネスでやっているのとボランティアでやっているのとでは、雰囲気が大きく違うようです。
後者はとっても「あったかい」のだそうです。
ちなみに、実質的には料金はそう変わらないようです。

最後に、阿部さんが、湯島を活かして自分の世界に閉じこもりがちな若者たちのための話し合いの場を湯島でやろうとしていることを話してくれました。
私も参加させてもらう予定です。
そうした具体的な仕組みが少しずつ生まれてくれば、うれしいです。

とまあ、あんまり報告にならない報告ですが、「支え合い社会」に関しては、なかなか私の思いは伝わっていないので、ブログに少しシリーズで書こうと思います。
書き終わったらまたご案内します。
なお、このシリーズのサロンはつづきます。
ともかく具体的な仕組みを生み出したいものですから。

不覚にも風邪をひいてしまい、頭がボーっとしていて、いつもよりさらに冗長な報告になってしまいました。
インフルエンザはなかったので明日には回復するつもりです。

20160123


|

« ■節子への挽歌3063:不覚にも風邪のようです | トップページ | ■節子への挽歌3064:風邪の最終日 »

お誘い」カテゴリの記事

社会時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/63113086

この記事へのトラックバック一覧です: ■カフェサロン「支え合い社会を考えるパート2」の報告:

« ■節子への挽歌3063:不覚にも風邪のようです | トップページ | ■節子への挽歌3064:風邪の最終日 »