■節子への挽歌3057:死者からの支え
節子
東京は雪のようですが、我孫子は残念ながら雨です。
昨年、一瞬だけわが家の庭では小雪が降りましたが、先日の雪降りの日もわが家は雨でした。
わが家は、まだあったかいものに包まれているようです。
とはいうものの寒いです。
エリアス・カネッティの「群衆と権力」を何とか読んだのですが、そこに死者の権力、あるいは死者から力をもらうという話がたくさん出てきました。
たしかに、私たちのいまの生は、先を生きていた多くの死者から支えられています。
まるで人は、未来の人のために生きているようでもあります。
そして自分もまた、その「先を生きたもの」に仲間入りしていくわけです。
そんな大きな話にしなくても、いまの私の暮らしは、節子に大きく支えられています。
日常的な、極めて小さなことで、それに気づくことは少なくありません。
私の生き方は、私一人ではなく、節子とともに育ててきたからです。
ですから、節子がいなくなっても、その生き方は変わりません。
それを変えたら、私ではなくなってしまう気がするからです。
夫婦とは、家族とは、そういうものだと私は思っていました。
しかし、どうもそれは必ずしも基本ではないのかもしれません。
長年一緒に暮らしてきたが、死後は別々に暮らしたいという「死後離婚」が増えているそうです。
具体的には、たとえば、お墓を共にしないということでしょう。
なぜ生前に離婚しないかと言えば、経済的な理由が大きいようです。
私の考えでは、なかなか理解はできません。
私は、離婚は否定はしませんが、一緒に暮らすのが嫌なら、生前、つまり現世でこそ、離婚すべきだと思うのです。
パンのための人生ではなく、バラのための人生だと私は考えているからです。
しかし、生前は我慢して一緒に暮らし、死後の彼岸では別々に暮らす。
やはりみんな死後の世界を信じているのでしょう。
死後の世界を信ずるということは、現世を諦めているということにもつながります。
しかし、死者への追悼の念を失ってしまうことは、彼岸を否定することにもなりかねません。
大きなジレンマを感じます。
なにやら末世の世になってきているような気もします。
カネッティの話に戻せば、死者からの支えこそ、改めて私たちはしっかりと認識することが大切ではないかと思います。
昨日は阪神大震災から21年目でした。
あの日から、生き方を変えた人もあれば、社会が大きく変わったこともありました。
死者の悲しみは、無駄にしないようにしなければいけません。
| 固定リンク
「妻への挽歌16」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3200:苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。(2016.06.07)
- ■節子への挽歌3199:付き合っていて煩わしくないのが伴侶(2016.06.06)
- ■節子への挽歌3198:他者の夢に寄生した生き方(2016.06.04)
- ■節子への挽歌3197:お布施人生(2016.06.03)
コメント