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2016/02/23

■節子への挽歌3089:信の純粋性と主伴無礙

節子
今日も寒い日になりました。
テレビの「こころの時代」で木村清孝さんの「華厳経」の話を再放映しています。
6回シリーズの5回目を見ました。
そこで、厳密一致ということを知りました。
真言宗と華厳経とは融和性があり、明恵はそれを融和させたのだそうです。
たしかに、真言も華厳も、大日如来を基本においていますので、納得できる話です。

今回面白かったのは、さらに華厳経の明恵と浄土宗の法然との類似性について、木村さんが「信の純粋性」ということを話されていたことです。
いくら念仏を唱えても、いくら仏法に通じても、仏法への絶対的信頼がなければ、意味がないということを、明恵も法然も説いているのだそうです。

真言密教も浄土宗も、華厳経も、みんな通じている。
その話がとても面白かったです。
つまりみんな同じところに行くのです。
私は仏法にはまったくの無見識な存在ですが、どこかに親しみを感じます。
寺院に行くと、そこが何宗であろうと、なんとなく「安堵」します。
それは、やはり「絶対的な信頼」の対象にできるものが、そこにあるからなのでしょう。
もちろん、信頼するかどうかは、自分次第です。
しかし、その気になれば、信頼できるものがそこにあるというのは、とても大切なことなのです。

木村さんは、もうひとつとても示唆に富む話をしてくれました。
「主伴無礙(しゆばんむげ)」ということです。
主伴、つまり主役と伴者は、状況によって替わるものであり、そこには絶対的な壁などない、というのです。
木村さんは、家族を例にとって説明してくれます。
家庭の主人という言葉があるように、私たちは、家族の柱(主人)は父親というように固定的に捉えてしまいがちですが、状況によって、主と伴は入れ替わっていくというのです。
たとえば、母親がお料理を作って、みんなに「はい。今日はこれですよ。こんなご馳走ですよ」と出す時には何と言っても母親が主人公。また食事をする中で、子どもが、「今日、学校でこんな面白いことがあったよ」と話をすると、父親も母親もしっかりと耳をそばだてて聞く。その時には子どもが主人公なんだと、木村さんは説明します。
それこそが、人間同士の、あるいは物事の本来的な関わり方なんだというのです。
こうした物事のありよう、関わり方を華厳経では、「事事無礙」と言っていますが、木村さんがやさしく話してくれると、難しい華厳経が、なんとなくわかったような気になってきます。

いずれにしろ、事事無礙のなかでの、信の純粋性という言葉がとても心に響きました。
まだまだ私は純粋さが不足しています。
しかし、節子に対する信は、かなり自信がありました。
節子も、そうだったはずです。
それがきっと、私の心身の平安を支えてくれていたのだろうと、最近思います。
絶対的なものが不在になるとどうしても相対的な関係のなかで振り回されがちです。
主伴無礙を、もっと意識しなければいけません。

 

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