■節子への挽歌3076:乾いた悲しさ、乾いた寂しさ
節子
しばらく日記的な挽歌を書いてしまっていたため、ちゃんとした挽歌を書こうと思った途端に書けなくなってしまいました。
困ったものです。
節子がいなくなったころ、時間が解決してくれますよ、と数名の人から言われました。
そんなことはなく、時間は悲しさや寂しさを決して癒してはくれないと思っていました。
それは事実なのですが、しかし、時間とともに何かがやはり変わります。
表現が適切ではないでしょうが、「瑞々しさ」が失われるのです。
なにか乾いた悲しさ、乾いた寂しさになっていきます。
挽歌にも瑞々しさはなくなっているのが、書いていてわかります。
あるいは、悲しさや寂しさが日常化してしまう。
生活そのものから喜怒哀楽が失われていくと言ってもいいかもしれません。
心から笑うことも、心から悲しむこともなくなってしまう。
生きる喜びが感じられなくなったと言っていいかもしれません。
死者とともに生きるということは、そういうことかもしれません。
しかし、伴侶や子どもを失ったのは、私だけではありません。
そういう人はたくさんいます。
みんなどうやっているのでしょうか。
その心の奥はわかりません。
私と同じでしょうか。
グリーフケアワークショップで、同じ立場の人たちと話したこともあります。
その場では、奇妙な安堵感がありましたが、正直、何も変わりませんでした。
自らを相対化はできますが、悲しさや寂しさを相対化できるわけではありません。
それは、そこからは消えていかないのです。
ただ乾いていってしまうのを防いでくれるかもしれません。
枯れそうな花に水をやるように、時に悲しさや寂しさを誰かと共有する意味はあるかもしれません。
しかし、それは結構、リスクもある。
悲しさや寂しさが日常化したなかで生きていると、そうしたものへの免疫力も低下します。
だれかの悲しさや寂しさが、感じやすくなり、同調しやすくなるのです。
そして精神が不安定になってしまいがちです。
まあそんな感じで、もう8年以上生きています。
それなりに疲れますが、どうしたらいいのか相変わらず見えてきません。
挽歌を書けない日もありますが、いつもそんな自問自答を繰り返しているのです。
節子との対話は、欠かしたことはないのです。
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