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2016/02/14

■カフェサロン「フランクフルト学派と市民」の報告

昨日の「ちょっとハードなカフェサロン」の話題提供者は、楠秀樹さんでした。
楠さんはいつも詳しいレジメをつくってきてくださいますが、今回も「フランクフルト学派と市民」と題した、ドイツにおける歴史研究(歴史認識)の動きをわかりやすく整理してきてくれました。
そして、それを踏まえて、現代にもつながる「優生学の問題」や公共圏の変質や生活世界の植民地化、道具的理性の意味、メディアの問題、さらにはナチドイツが特殊だったわけではないことなどにも言及され、そこから現代の日本社会を解く、さまざまなヒントを提起してくれました。
レジメを読み直してみると、楠さんの問題意識が改めて浮かび上がってきます。

レジメの最後に、いわば要約ともいえることが書かれているので、その一部を引用させてもらいます。

・ヒトラーの試みたことは市民を国民=民族にすることであり、それはより広く言えば遺伝の管理であったものとして今や反省され始めている。

・生殖や遺伝の管理という事態は、「家庭」を空洞化して国家に一人一人を帰属させ、生殖や妊娠の自己決定権をはく奪した。

・遺伝や健康、公共の福祉の下に「生きるに値しない生命」を排除する効率という発想を医師などの専門家や国民も支持し、協力した。

どこかいまの日本社会を思わせるところがあります。
ナチスが抹消しようとしたのは、ユダヤ人だけではないのです。
それにドイツ人が荷担し、つまるところはドイツ人自らもまた抹消の対象になっていった。
そこが実におぞましいところです。
そして、そうした意味においては、当時の日本人もさほど大きく変わっていなかったのかもしれません。
しかも、それはいまも変わっていないかもしれません。

ドイツ人はナチス時代のドイツを(不十分かもしれないとしても)総括しようとしたのに、なぜ日本人は戦前から戦時にかけての日本を総括できないのかという議論もいろいろとありました。
そこからいまの日本の社会状況や沖縄の問題などにも話は及びました。

フランクフルト学派が生み出した「価値」は何かという議論もありましたが、学ぶことはたくさんあるように思います。
私にとっては、湯島でのサロン活動も、ある意味では、その学びから得た一つなのです。
今回も、キーワードとして出てきましたが、私たち一人ひとりが「公共的市民性」を高めていくことが大切であり、現実的なのだろうと思います。

ところで、今回、楠さんは優生学の動きにかなり時間を割いて話してくれました。
そして、優生学の歴史はどうしても(そして時には意図的に)忘れられがちになると指摘されました。
楠さんが大学で接している学生たちの優生学への反応の話も、私には衝撃的でした。
これに関しては、改めてサロンを開きたいと思いました。

優生学への志向がナチスを生み出したとも言えるかもしれませんが、それに関しても日本はいま、かなり危うい状況にあるような気がします。
いまテレビで、カズオ・イシグロ原作の小説「私を離さないで」がドラマ化されて放映されています。
テレビのドラマはどうもなじめませんが、原作を読んだ時の衝撃は今も忘れられません。
ナチスドイツは決して、遠い世界の「悪夢」ではなく、私の隣にあるような思いが、最近強くなってきています。
そうしたことを改めて実感させてもらったサロンでした。

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