■カフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」の報告
昨日のカフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」は、参加者6人のゆったりした集まりになりました。
話題提供者の小宮山さんは、国際箸学会の理事長でもありますが、箸のことを考え抜いているうちに、人間と道具とは切り離せないものだということにたどりついたのです。
小宮山さんは、人間とは道具がないと生きていけないものと考えているようです。
では、そういう意味での道具とは何なのか。
そして、なぜ道具は人間にとって不可欠なのか。
道具の効用はいったい何なのか。
そういうことを考えると、いろんな問題が見えてくるはずです。
とまあ、そんなサロンを想定していましたが、そういう話になったようでならなかったような気もしますが、しかしとても知的なサロンになったことは間違いありません。
参加者の深津さんが、ウィキペディアの「道具」の定義の最初にあるのが、「仏道修行の用具」だと教えてくれました。
今まで気づかなかったのですが、「道具」に「道」という文字がつかわれていることの意味が少しわかりました。
これには深い意味がありそうです。
人間の指が道具になる「咫(あた)」とか大工さんの常備道具だった「スコヤ」という話も出ました。
私は、その言葉自体を知りませんでしたが、道具を考える大切な視点がありそうです。
本来、道具は人間の手段だったのに、いまや人間が道具の手段になってしまったのではないかという話も出ました。
実は私が小宮山さんの話に関心を持ったのは、道具作りの好きな小宮山さんでさえ、そう思っているのだと感じたからです。
「人間とは道具がないと生きていけない」と考えるということはそういうことを含意しています。
私は、全くそうは思っていないのです。
小宮山さんはぶんぶんゴマの話も、実演付きでやってくれました。
ぶんぶんゴマから学ぶことも大きいです。
以上は話のほんの一部ですが、サロンらしいサロンでした。
ところで、このサロンの案内の時に、人間だけがやっている行動の話を書きました。
それについて補足しておきます。
ある本で読んだのですが、チンパンジーの認知に関する世界的な権威の一人、マイケル・トマセロは、「2頭のチンパンジーが丸太を一緒に運ぶところを見ることなどないだろう」と言ったそうです。
その話を紹介している道徳心理学者のジョナサン・ハイトは、その話を聞いて、人間がほかの生物と違うのは、そういう「意図の共有」ができることだと言っています。
私は、それを読んで、道具の本質は「意図の共有」にあると思いました。
昨日のサロンでも最後にその周辺の話になりましたが、残念ながら時間切れでした。
この話は、コミュニケーションの問題につながります。
このあたりはいつかまたサロンをしたいと思います。
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