■節子への挽歌3077:他者を思いやる幸せと不幸
節子
昨夜、明け方のテレビで、在宅ホスピスの活動に取り組んでいる人が、がんの末期はあまりに辛くて、他者を思いやることなどできなくなることがあると話していました。
幸いに、節子はそうはなりませんでしたが、たしかに最後の1か月は「壮絶」とさえいえるような日々でした。
当時を思い出しながら、テレビを見ていました。
あの時の私の対応がよかったのかどうかは確信が持てません。
よくがんばったと、友人からは言われましたが、当事者には当然、真実が見えるわけで、正直、とてもよく頑張ったなどという思いは持てません。
娘たちよりも、私が一番、だめだったかもしれません。
落ち度だらけだったと言うべきでしょう。
でも、私も娘たちも、そして何よりも、節子も、それぞれに精一杯だったことは間違いありません。
不十分かもしれませんが、それぞれが他者を思いやることができていました。
完全だったのは、節子だけかもしれません。
他者を思いやることができるのは、とても恵まれた状況なのです。
それは、節子を見送って数年してから気づいたことです。
その幸せ、他者を思いやることのできる幸せに、感謝したいと思います。
しかし、その幸せに気づかずに、節子との関係においては、悔いを残したことが、いまもなお尾を引いています。
そこからなかなか抜けられません。
この挽歌を読んでくださっている方が、こうメールを書いてきてくれました。
何故、ご自分の思いなどお書きになるのか?
奥様に語りかけたい?
ご自分の思いを書くことによって整理というか客観視というか、思いを形にする?
節子に語りかけたいというのは当たっていますが、同時に、悔悛や謝罪の念が大きいのかもしれません。
他者を思いやる幸せは、同時に、他者を思いやれなかった不幸とつながっているのです。
思いやることが不十分だったことに気づくことは、心を萎えさせます。
ましてや、その結果が、相手を守れなかったとしたらなおさらです。
だから、人を思いやることは、幸せだけではないのです。
そして、時にその悔いは大きく膨れ上がってくることがある。
他者を思いやることは、そういう意味では、勇気がいることなのかもしれません。
また哀しい知らせが来ました。
この歳になると、別れは日常になってくるのかもしれません。
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