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2016/02/16

■節子への挽歌3079:社会が変わってしまった

節子
ちょっと気を抜くとすぐ挽歌がたまってきてしまいます。
いま気づいたのですが、また10日ほど、遅れてしまいました。
節子離れが始まったのかも知れません。
決して忙しいわけではなく、相変わらず暇で暇でしょうがないのですが、時間だけはあまりありません。
暇なのになぜ時間がないのかと思う方もいるかもしれませんが、これについては前にも書きました。
暇だから時間がないのです。

数年前に録画した、高村薫さんのテレビを見なおしました。
3.11の後、日本人は変わらなかったと怒りを込めていた番組を思い出したのです。
最近の私の精神不安は、もしかしたらそれに関係しているのかもしれません。
録画しておいたDVDを探して、見直しました。

日本人はなぜ怒らないのか。
福島原発事故が起こったにも関わらず、なぜ原発再稼働を認め、怒らないのか。
これまでの問題を3.11は顕在化させてくれたのだから、復興などではなく、新しい社会づくりに取り組まなければいけない。
高村さんはそう言っています。
私も、当時、強くそう思いました。
復興ではないだろう。
必要なのは生き方を問い質し、生き方を変えることであると。
テレビを見ると、久社の一人が、言葉は違いますが、そう語っていました。
とうじしゃになると、おそらく見えてくるのでしょう。

しかし、日本人は変わりませんでした。
所詮、日本人はキリギリスであって、アリにはなれないのだ、と高村さんは言っています。
そんな恥知らずの人間たちのなかで生きていることに、やはり私も違和感があります。
人は何で生きているのだろうか、と思うのです。
節子は、もしかしたら、良い時代の中で生まれ良い時代のなかで死んでいった。
そういう気もします。

それにしても、いまは酷い時代です。
テレビの描く日本社会は、もうやりきれないほどにおかしいのです。
そういうひどい社会を、私の子どもたちは生きていかなければいけません。
そう思うと、こういう社会にしてしまった自分の生き方を呪いたくもなります。
しかし、せめて自分にできることはないのか。

最近、相変わらず時評編は書けていませんが、挽歌編を書けないのも、こんな気分が少なからずあるからです。

時々、私は「悪夢」を見ているのかと思うことがあります。
節子がいた時には、気づかなかったのでしょうか。
それとも、悪夢が始まったのは、節子がいなくなってからでしょうか。

節子の看病と死後の数年間、私はあまり世間づきあいができていませんでした。
その5~6年の間に、日本の社会はどうも変質してしまった。
それが私にはずっと不思議でならないのです。

世界は自らの意識で構成されている。
そんなことが真実に思えてくる、この頃です。

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