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2016/02/08

■節子への挽歌3072:人の世話になるのもケア活動

節子
だいぶ体調が戻ってきました。
いろんな人のエールのおかげです。
今日は、大忙しでした。
人の世話になるというのも、ある意味でのケア活動だと私が考えていることを知ったら、みんなはどう思うでしょうか。
しかし、私はますますそう思うようになってきています。

節子が元気だったころ、節子のお母さんが入院していた病院にお見舞いに行ったことがあります。
その病院に節子の知っている方のお孫さんが入院していました。
自動車事故で、意識が亡くなり、いわゆる植物状態でずっと入院しているそうでした。
意識もなく寝たきりの、たぶん20代のお孫さんに、そのおばあさんはずっと付き添っていました。
そして、意識のない孫に対して声をかけていました。
私は、病院ですれ違っただけですが、節子からそういう話を聞きました。
もう40年以上も前のことなので、不正確かもしれませんが、その時のそのおばあさんの明るくやさしい雰囲気がなぜか今も残っています。
その時、感じたのは、この人は、孫の世話をしつづけることが生きがいなのだと思いました。
節子とは、よくその話をしたものです。
人の幸せとは他者には決してわからない。
そして、人の不幸も同じようにわからない、と。
これは、私が「ケア」ということに関心を持った、ひとつの契機です。

節子が胃がんになり、私は仕事はもちろん、人との付き合いも最小化しました。
家に引きこもり、節子との時間を過ごしました。
いまから考えると、あまり節子のケアをしたとも思えません。
むしろ私がケアされていたのかもしれないと、今では思います。
一緒にいて、節子の役に立つことができる。
これほどうれしいことはありませんでした。
あまりの幸せのなかで、まさか節子がいなくなるとは思いたくなかったのでしょう。
節子の死を意識したことが、ないのです。
ですから、それは介護とは言えないかもしれません。
相手を心配していたのは、むしろ節子だったかもしれません。

現世と彼岸と、いずれ別れることになる。
物理的には、もう相手をケアできなくなる。
そういう意味では、死に行く者も生き残る者も同じです。
生き残る私を、節子は心配していました。
その心配は、あながち間違いではありませんでした。
節子がいなくなってからの私は、生き違ってばかりしているような気もします。

しかし、もう9年以上も生き残ってしまった。

誰かの世話ができることの幸せに、多くの人は気づきません。
「世話をする人」と「世話をされる人」と、どちらになりたいかと問われて、どちらを選ぶ人が多いでしょうか。
私は、もちろん、「世話をする人」を選びます。
だから、「世話をされる人」になることこそが、介護の起点なのかもしれません。
という意味で、この1か月、私は多くの人に役立ったわけです。

とまあ、こんな「悪い冗談」が言えるほどに元気になってきました。
もしかしたら、昨夜、友人の魔法づかいが、遠隔ヒーリングで私に「魔性」を吹き込んだのかもしれません。
余計なことを言うと、また「気」を抜かれるかもしれません。
いろんな人に支えられていると、けっこう疲れることもあるのです。
はい。

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