■節子への挽歌3092:さびしくもあり、楽しくもある
節子
昨日、銀座の画廊で会った篠崎さんからメールが来ました。
篠崎さんの了解は得ていませんが、こんなことが書かれていました。
日頃孤独に過ごしていますので、個展で大勢に対応すると楽しい反面、戸惑いを感じます。
この気分はよくわかります。
篠崎さんと私とでは、違いはありますが、この感覚は共有しているような気がします。
ちなみに篠崎さんは決して「孤独」ではありません。
「孤高」というべきでしょう。
私と違って、強さがある。
昨日も、もういつ死んでもいいというようなことを言っていましたが、それも孤独でない証ではないかと思います。
言い方を変えれば、篠崎さんには世界が見えてしまったのではないかと思います。
私が勝手に推測しているだけではありません。
昨日、篠崎さんと話していて、伝わってきたことなのです。
いわばある意味での「さとりへの到達」です。
言い淀みますが、私にも最近、少しそんな感じがあるのです。
昨日、篠崎さんと話して一点だけ見解が違ったことがあります。
篠崎さんは、自らの死は体験できないし、死んだ自分も見ることはできないと言いました。
それに対して、私はたぶん死んだ自分を見るだろうと思うと言いました。
実際にそう確信しているのです。
来世を確信していますから、死んだ自分を見ることができると思っているのです。
おそらく節子はいまもなお、私を見ているでしょう。
だとしたら、私もまた、死後、現世を見ることができるでしょう。
もしかしたら、自らの死も体験できるかもしれません。
死後の私が見る現世とはどう見えるのか。
とても興味があります。
いま私が見ているような見え方ではないことは間違いありません。
でもおそらく見えるような気がしています。
節子が見ているように、です。
先祖に見守られているという感覚は、とても大切です。
お天道様が見ているという時の「お天道様」には、祖先も入っているのかもしれません。
仏教は、そうした感覚を意識づけしてくれました。
その感覚が持続してれば、孤独などという思いは生まれないでしょう。
宗教の大きな効用は、人の命をつないでいくことだろうと思います。
個人の死は、死ではなくなるのです。
愛する人や大切な人を亡くした人は、そういう思いを持てるかもしれません。
少なくとも私は、節子がいまなお私を見ていると思えるのです。
昨日の篠崎さんがあんなに元気で、透明だったのも、そこにたどり着いたからかもしれません。
昨日の篠崎さんの話は、すべてにおいて、肯定的でした。
前にもまして、ますますさわやかでした。
人の関係は、実に不思議です。
長年付き合ってもわかりあえない人もいれば、瞬時にしてわかりあえる人もいる。
この数日、私も友人に関して、戸惑うことの多い数日でした。
さびしくもあり、楽しくもある。
それが友人というか、人とのつながりなのでしょうか。
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