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2016/02/06

■節子への挽歌3070:生きた証

節子
生きていることの意味に関しては、これまでも何回か、書いてきました。
私の考えは、生きることそのものが目的であり意味であるというものですが、それはそれとして、何か「目標」がないと実際に生きる力が出てこないことは否定できません。

先日、ある70代の女性が、そのような発言をしました。
彼女は、かなり充実した生活をしてきましたし、いまもテーマを持っています。
しかし、それではどうも駄目なようです。
話していたら、どうも彼女の生い立ちに関わっているようです。
彼女は被爆した広島出身です。
普段は東京で暮らしていますが、いまも広島に家があるそうです。
そして、彼女が話したのは、原爆への思いでした。

詳しくは聴いていませんが、原爆関係や平和の集まりにも出てきているようですが、どうもみんな波長が合わないようです。
詳しくは聴けなかったのですが、原爆や核兵器に関して、もっと「美しく」(誰かを裁いたり非難したりせずに、寛容に、しかしラディカルに、そして創造的に、というような意味ではないかと思いました)、事実を知り合い、価値を創りだせるようなことはできないのかというのです。
例えば、それが「やさしい絵本」かもしれません。
そんな何かを実現したいというのです。
そして最後に彼女が付け加えたのは、それができれば生きた証を残せる、それがないと今の私は何か「浮遊している」(違う表現でしたが思い出せません)ような状況だ、という言葉でした。

生きた証とは、もしかしたら、現世と彼岸をつなぐものなのかもしれません。
彼岸が近くなると、それがほしくなるのかもしれません。
彼女には子供がいません。
子どもがいて、孫がいれば、ある意味での「証」は残ります。
ちなみに、私にもまだ孫がいません。
もしかしたらかなり遅いですが、今年は孫ができるかもしれません。
しかし、いまはまだ、私には生きた証はまったくありません。
私の場合は、「生きた証」は全く関心もありません。

彼女の言葉を聞いた時、ふと思いました。
生きた証は、彼岸に持っていくものではないのか、と。
現世に残す「生きた証」には興味はありませんが、もし彼岸に持っていくものであれば、捉え方は変わってきます。
少し考えてみたくなりました。

それにしても、彼女がこんなことを思っているとは、まったく知りませんでした。
人の思いなど、知り得ようもないでしょうが、まだまだ私は自分の世界の中でしか生きていないことに気づかされました。

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