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2016/02/26

■保育園をつくればいいのか

今朝のテレビで知ったのですが、ネットで「保育園落ちた日本死ね!!!」投稿が話題になっているようです。
投稿者の気持はわかりますし、それへの反応のいくつかも読みましたが、共感できるものも少なくありません。
しかし、私は、そもそも「保育園依存の社会のあり方」に大きな疑問を持っています。
保育園をつくればいいのかということです。
問題の立て方が間違っているように思います。

これは保育園に限ったことではありません。
福祉施設もそうですし、病院もそうですし、働く場もそうです。
みんな問題を、誰かに丸投げした他者依存で、しかもハードな施設や制度に依存しています。
自分の生き方を問い質し、当事者たちが自分たちで解決するという発想は失われてきているのでしょうか。
要するに、最近の多くの人たちは、問題が起こればそれを誰かのせいにし、お上に解決を求めるだけのような気がします。
そこでは、大きな目的が見失われています。

保育とは何か、ではなく、自分の生活を維持するための保育園が必要だと言っているようにしか、私には聞こえません。
そこまでして、労働者や消費者になりたがる人たちの気持ちがわかりません。
そうやって資本の活動の手段になってしまう。
働かないとお金が得られず生活が成り立たないと言われるかもしれませんが、その発想こそが主客転倒しているように思えます。
まずは自らの生き方をしっかりと考え、何を大切にしたいかを考えるべきでしょう。

異色の経営学者の長老、ミンツバーグは近著「私たちはどこまで資本主義に従うのか」でこう書いています。

企業が法人として法律上の「人間」の地位を得る一方で、人間は企業にとっての「資源」になった。 あなたは「人的資源」でありたいだろうか。 私はいやだ。私は人間だ。

私も人間でありたいと思っています。
それにしても「死ね!」とは穏やかではありません。
以前、今回と同じような主旨で、雇用の場を増やすことに依存する考えに異論を書いたことがありますが、その時にも私あてに「死ね!」という物騒なメールが届きました。
そういう言葉遣いをする人は、もう人間ではなくなっているのだろうなと思います。
部品になった人たちは、死ねませんから、死ねという言葉を着やすく使うのでしょうね。
しかし、部品には子供は育てられないでしょう。
とても哀しい時代です。

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